その4
ぴしりと何かにヒビが入る音を確かに聞いた。
面前には自分が嫌っている――というか、もうむしろ憎んでいる相手だ。
その日に当たってきらきらと輝くオレンジ色の髪も、灰青の瞳も、決して見誤ったりしない自信がある。
夢の中にさえ現れ、それはそれは小生意気な調子で小躍りし、噂話が偶然にも耳はいれば憎しみで体温がカっとあがる程の相手だ。
「んー?」
だというのに、その問題の糞ガキ、ルディ・アイギルは本当に不思議そうに自分を見上げ、やがてぎゅっと眉間に皺を寄せていたが、相当苦労して理解したというようにぽんっと手を打った。
「第二隊の変態」
「誰がだっ!」
わざとか? わざとだろう?
思い切りその襟首を締め上げてやろうと手を伸ばすと、小生意気なサルはひょいっと身を交わして剣呑な眼差しで睨みつけてきた。
灰青の色素の薄かった瞳がその色合いを濃くし、まるで悪戯でもするかのように鼻先で笑う。
腹立たしいことに面前で見る糞ガキときたら、記憶を更に塗り替える程の美少年で腹立たしい。聖歌隊で女のような高音で歌っていろと殴りたい程だ。
「何するんですか。またおかしなことするつもりですか?」
「誰がキスなんてするかっ」
「誰がキスなんて言ったんですか。そんなことばっか考えてるんですか? あー、やだやだ変態っ」
ぶ・ち・殺す!
思わずフィルドは自分の腰に手を回し、そこにある筈の細剣を求めたが、勤務外でそんなものを引き抜いたら問題になると頭の中の冷静な部分が訴える。
いやしかし、こんな辺鄙な場で何があろうと証拠など――とまで考えはじめてしまったフィルドの耳に、暢気そうな「うるせーぞぉ」という声が割って入り、慌てて視線を向ければ第三隊の副長――ベイゼル・エージが件の鍛冶屋から顔を出し、片眉を跳ね上げた。
チっと我知らず舌打ちが漏れた。
品行方正と言われる第二隊としては激しくまずい。だが、このルディ・アイギルを面前にして冷静にしてなどいられない。
目撃者がいては報復活動に支障がある。いや、しかしいっそ思い切って証人になってもらっても構わない。
フィルドがそう思っているのに反し、しげしげとベイゼルはフィルドを眺め、ニヤリと口の端をあげた。
「お前か、フォード・バネット」
「フィルド・バネットです」
こいつらは人をおちょくっているんじゃないだろうな?
フィルドがぐっと拳を握り締めるのとは正反対に、ベイゼルはのんびりとした様子で近づいてニヤニヤと笑ってみせる。
「何を揉めてるかと思えば、またお前らか。今度は何よ?」
はっきりと面白がっているベイゼルに何か言ってやろうと口を開きかけたが、それより先にオレンジ頭がひよこりと動いた。
「どうでもいいですよ。副長、鍛冶屋はもういいんですか? いいんならさっさと町に戻りましょうよっ。ぼく皆のお土産買わないとっ。とっておきのお店があるんですよっ」
ルディエラはふんっと鼻を鳴らし、自分の馬の手綱を引き、その視線を鍛冶屋の入り口でのんびりとこちらの様子を伺っている男に声をかけた。
「副長の馬とってきてよ、グレゴリー」
「おう――そっちの人はお客さんかな? 中にどうぞ。そいつの相手してっと色々疲れますぜ」
さも愉快そうに肩を揺らし、馬屋へと向かう男に気を取られていると、ベイゼルがフィルドの肩をぽんぽんっと親しげにたたいた。
「グレゴリーの言う通りだ。このぼけなすに付き合っていいことなんて無いぞ? イノシシに当て逃げされたとでも思って忘れろよ」
「ちょっ、何ですかそれっ。ぼくが加害者みたいにっ」
唇を尖らせるルディを睨みつけ、フィルドはそれでも冷静さを装った。
「すみませんが、アイギルと少し話しがしたいんですが」
少なくとも、闇討ちのような真似についてはきっちりと話をつけない訳にはいかない。それでも文句があるのであれば正々堂々と決闘なりなんなりで決着をつけるべきだ。
きつい眼差しで言うフィルドの前で、ベイゼルは自分の黒髪をかきあげ、好戦的な顔をしているルディエラと、そして無理やり冷静さを装うフィルドとを見比べて肩をすくめた。
「だめだ」
「エージ副長」
「あのな、さっきも言ったようにイノシシにでも当て逃げされたと思って忘れろ」
やられっぱなしでなどいられる訳がないっ。
憤りを見せるフィルドに、ベイゼルは腹に溜まった酸素を一気に吐き出すように深く、ふかーく吐き出し、指先をちょいちょいと動かしてルディエラに命じた。
「アイギル、お前が馬とってこい」
「えーっ」
「行け。行って来い。ほらっ」
しっしっと犬でも追い払うように手を振り、ベイゼルは更に溜息を一つ落としてルディエラがしぶしぶ鍛冶屋の裏手に行くのを見送り、がしりとフィルドの肩に手を回して顔を近づけた。
「あのな、あいつはもうお前のことなんてちぃっとも気に掛けて無かったんだよ。あいつの中じゃ終わってるんだ。ちょっかい出すな」
「そんなの信じられると思いますか? 私がこの数日どんな目にあっているかっ」
おかげで立派な睡眠不足。
仕事中に小さなミスまで連発させてしまい、挙句こうして無理やり休暇をとらされてリルシェイラの為の菓子など買いに行かされる始末。
あれもこれも、昨日が雨だったことも、今日が晴天であることも全てあの糞ガキのせいだ。
フィルドの中ではすっかり悪といえばルディ・アイギルの方程式ができあがっていた。
「あー、それなー……予想はつくんだが」
なんかナイフが降ってきたとかって話だよな?
剣呑な雰囲気をかもしているフィルドの肩にぐいっともたれるようにして、ベイゼルは肩をすくめて、はははっと乾いた笑いを落として更に嘆息した。
「誓って言うが、あいつじゃない」
「じゃあ誰がそんな真似をすると言うんですか」
ベイゼルはがりがりと自分の頭を引っかき、逡巡しながら呻いた。
「……誰かは詳しくいえない。というか言いたくない」
自分の隊の隊長だとは口が裂けても言えない。
情けなくて。
「とにかく、あー……ある人物がな、めちゃくちゃアレを溺愛してるんだよ」
「は?」
「だから――あのボケを、めちゃくちゃ可愛がってる人間がいてだな、うん。つまり、お前は口止めだか何か知らんがあいつにキスしちまった訳だろ?」
めっちゃ怒ってるんだよ、これが。
ベイゼルは自分で言いながら嫌気が差した様子で、がしがしと自分の頭をかき混ぜ、だぁっと叫び、フィルドから身を引き離すとその指でフィルドの胸をついた。
「俺からももうそんな真似はするなって言ってやるから。とにかく、もう忘れなさいよ」
「そんな訳にい――まさか、殿下が?」
ベイゼルが口を濁す相手、しかも問題の日に居酒屋【アビオンの絶叫】で事を収めたのはキリシュエータであることを思い出し、フィルドはすっと青ざめた。
しかも、キリシュエータはあの時「闇討ちにあっても知らぬフリをするからな」とまで言っていた。まさか第三王子殿下が男好きの上に妙な嫉妬心をおこして? めまぐるしく恐ろしい考えがフィルドの脳裏を駆け巡ったが、それに気付いたベイゼルは慌てて打ち消した。
「ちげぇよ? おい? まったく全然違うからな? おま、いくらなんでもそれは不敬罪で偉いことになるぞ?」
「……いや、はい。そうですよね」
さすがに恐ろしすぎる考えを否定され、フィルドは思わず胸元に手を当てて息をついた。
自分の主であるリルシェイラもはっきり言っておかしな相手だが、その弟殿下がアレな趣味の持ち主などとイヤ過ぎる。
「とにかく。アレに関わるとろくなことにならないから。お前の矜持とか色々と思うところもあるだろうが、ここは俺に免じてこの間のことは水に流してくれよ。その、ナイフだとかのヤツもなんとかするからさ」
苦々しい顔で言うベイゼルの様子に、フィルドは奥歯を噛み締め不承不承うなずいた。
他隊の副隊長にそこまで言われては流石に拳を下ろさずにはいられない。
腹の底で色々と思うことがあったとしても、だ。
「で、だ。あれはガキで馬鹿だから俺がお前に謝れと言ったところで意固地になるだけだ。悪いが、お前から歩みよってもらえるか?」
「……無理です」
何故自分がそこまで我慢しなければいけないのか納得できない。
「かぁぁぁっ」
ベイゼルは奇妙な声をあげ、フィルドの胸に指を突きつけた。
「俺は、わりと面倒くさがりだ。他人なんざどうでもいい――その俺が、お前の為を思って言ってやってるんだ。ここは素直に受けろ」
その台詞のどこを信じろというのか。
明らかに可愛がっている部下の為だろうに。まさか、あの糞ガキを溺愛している阿呆野郎はおまえではないだろうな。
と、フィルドは思わず下衆な勘ぐりまでしてしまったが、ベイゼル・エージの女好きは有名だった。
ことに女性らしい女性ということで、警備隊の事務官に言い寄っているというのも知っている。
苦痛を堪えるように奥歯を噛み締め、フィルドは不承不承うなずいた。
「副長! 早く町に戻らないとっ」
ベイゼルの馬を引いて戻ったルディエラに、ベイゼルはフィルドの肩を親しげに叩きながら応じた。
「おうっ。悪ぃな――それと、フォードがお前に話があるってよ」
フィルドだ。人の名前を間違えるんじゃない。
内心で苛立ちを抱えながら、フィルドはルディエラを見下ろした。
にんじんのような色合いの髪に、灰青の瞳が今は太陽の光をうけて透明な色合いを浮かべている。
まさに胡散臭そうなものを見るように。
屈辱を覚えたが、ぐっと堪えて手を差し出した。
「悪かった――」
何に対しての謝罪かは言わなかった。言う必要もないだろう。むしろその後の騒動を引き起こしたこいつにこそ謝って欲しいというのに。
何故こんなことになるのか。
フィルドの内心など知らぬ気に、ルディエラは瞳を瞬いた。
また何か嫌味が来るかと思ったが、小生意気な糞餓鬼は驚く程やわな手でぎゅっとフィルドの手を握り返し、子供のように無邪気に笑った。
警戒心をふわりと解いて、男と理解していても一瞬どきりとさせられる愛らしい笑み。
「ぼくもなんか色々とオトナゲなかったです。ごめんなさい」
なんだろう、そういわれるとこちらがそれを更に上回る程に物凄く大人気ない気がするのは。
激しくイラッとさせられる台詞のように思うのは気のせいか。いや、気のせいではないだろう。その証拠のように、無理やり親しげな雰囲気を出す為にフィルドの肩に手を掛けていたベイゼルが、慌てたようにルディエラの肩に手を回してくるりとその向きを変えた。
「アイギルっ、急いで町に戻らないといけないんだよな? 特別な土産とやらを買うんだろ?
ほら行くぞっ。じゃあなフォード」
そそくさと逃げるようにまたしても名前を言い間違えるベイゼル。
「副長ってば、フィルドさんですよ」
きっちりとベイゼルに訂正を入れ、ルディエラはぺこりとフィルドに一旦頭をさげて自らの馬の手綱を引いた。
ルディ・アイギルはやけに晴れ晴れとしているが……――
和解か……今のは和解なのだろうか。
納得のいかないシコリを残したが、それでも自分をなんとか誤魔化そうと思ったフィルドだったが――
町に戻ると決して誤魔化せない現実だけが残った。
***
「売り切れです」
「……」
「申し訳ありません。大口のお客様がいらっしゃいまして――午後の分は思いのほか早く売り切れてしまいました。またのお越しをお待ちしております」
リルシェイラに頼まれたリラ・ファンデルの薔薇菓子を買い占めたのがルディ・アイギルだと知るのは、一刻後のことである。