その3
ルディエラの自宅は町から少しばかり離れた森の中にぽつりと立てられた三階建ての邸宅だ。
兄弟達がもっと幼い頃は町の入り口の辺りに暮らしていたのだが、ある事情により人里を離れることとなった。
鶏並みに早起きの筋肉ダルマエリックが朝一番に大きな声で体操をしたり、子供達を相手に組み手、剣術とはた迷惑な日々を繰り広げた為――つまるところ近所迷惑が主な理由だ。
森を入り、しばらく行くとある湖畔の近くに開けたなだらかな場所に立つ一軒屋。上級貴族の屋敷のように恐ろしい程立派という訳では無いが親子七人とマーティア、セイム、そして年老いたアダンとが暮らすには十分な大きさを持っている。母屋、離れ、馬屋という三つの建物で構成されている家への一本道を馬で駆けて戻れば、玄関口から質素なシャツとエプロンをつけたマーティアがうれしそうに大きく手を振って出迎えた。
「ルディ様!」
「マーティアっ、ただいまっ」
大きな声で応えたルディエラだったが、マーティアは苦笑を浮かべてぺこりと頭を下げた。
「おつとめご苦労様でした」
「なんか微妙におかしくない、その台詞?」
まるで監獄からでも出てきたかのような気持ちになったルディエラが口を尖らせると、マーティアが小首をかしげて見せる。
マーティアの面前でセイムは慣れた所作で馬の尻に片手をついて地面におりたつと、ルディエラの為に馬の轡へと手を掛けた。
「まさか、もう逃げ帰って来た訳ではありませんわよね?」
にっこりと微笑むマーティアに顔をしかめ、ルディエラは地面におりたち肩をすくめた。
「違うよ。今日はお休み――昨日がお給料日で、見習いは本当はお手当てもらえないんだけど、隊の人たちからお小遣いを貰ったから持ってきたの。ま、クイン兄さまはいないだろうけど」
マーティア預かってくれる?
そう言葉を続けると、マーティアは苦笑した。
「ああ、それでですね」
「うん、それで帰ってきたの」
口元に手を当てたマーティアは、ちらりと弟を見てまたくすくすと笑う。
「いいえ、わたしがそれでと言いましたのは、クインザム様がいらしてるからですわ。ルディ様がお顔を出されると予想していましたのね」
その一言に、ルディエラは思わず口の中で「うげっ」と呻いてしまった。呻いた理由を察知したセイムが先をよんで笑ってみせる。
「安心して下さい。クインザム様はルディ様が騎士団にいらっしゃるのはご理解くださってますよ。もしかして怒ってらっしゃると思ってたんですか? あの方が許さずにそれができると思いますか?」
「……ま、父様も知ってるしね」
ぼそりといい、ルディエラは弾かれたように顔をあげた。
「まさか皆知ってる? ちい兄とか、バゼル兄さんとか?」
「バゼル様はご存知じゃないですよ。ルーク様は……どうでしょう? こちらからは誰も言ってないと思いますけど」
その言葉に安心しつつ、ルディエラは馬をセイムに任せてさっさと自宅の玄関をくぐった。
すぅっと、自宅の空気を一気に肺に入れるとなんとなく泣きたいような気持ちになる。一月以上あけたことなど無かった自宅。そこらかしこに自分の記憶が落ちているような奇妙なものがこみ上げて、ルディエラは一気に廊下を駆け抜け、執務室兼図書室である部屋の扉を勢いよく開けば、本棚に向かい本を空いている場に納めていたクインザムはゆっくりと振り返って微笑んだ。
「廊下を走ってはいけないといつも言っているだろう」
「もぉっ、久しぶりに顔をあわせた一言めがそれなの?」
不満に唇を尖らせたルディエラに、クインザムは淡々と手にある本を片付け、それが終わると両手を広げた。
「おいで」
「――」
すねた顔で突っ立ったままのルディエラに、クインザムが唇の端を持ち上げる。そんな顔をするとクインザムはティナンによく似ていて、ルディエラは途端に眦に涙が盛り上がり、喉から競りあがるものに小さな嗚咽を漏らした。
親でも兄でもない。ティナンはそう言った。
――でもそれは、それは……
「兄、さまっ」
「うん?」
「ぼく、ぼくさぁ――がんばってるよ」
「判っているよ」
「ぼく、ぼく……」
今は、ルディエラでいいよね?
小さく呟いた途端、ルディエラはクインザムに抱きつき、その胸に顔をうずめて叫ぶように泣いた。
***
「申し訳ありません。午前中の分はもう売り切れです」
「――」
三十分近く女子供に混じって恥ずかしげもなく並ばされた挙句、面前で売り切れを宣言されたフィルド・バネットは口元を引きつかせた。
絶対にありえないことと思いつつも、コレもあの糞ガキ――ルディ・アイギルの陰謀ではないかと思った程だ。
当人が聞いたら「ふざけるな」と怒鳴られるだろうが、半ば本気でフィルドはその怒りすらルディエラに投げつけた。
毎日のように夢の中に現れ、飄々と踊りながら自分を馬鹿にしているルディ・アイギル。もう幾度自分の脳内でぎったんぎったんに叩きのめしてやったことだろう。時折自分の考えが夢であるのか現実であるのか判らなくなってしまう程だ。
「本当に申し訳ありません。午後にまた販売いたしますからその時にいらして下さい」
「予約は?」
声音をおさえて言えば、店員は困惑の眼差しを向けてくる。
「申し訳ありません。人気商品ですので」
予約は受け付けていないのだと暗に言われ、フィルドは「第二王子殿下が御所望なのだ」と怒鳴ってしまいそうになった。
そんなことを言ってリルシェイラの名声を落とす訳にはいかない。何より、現在のフィルドの格好ときたら騎士隊の制服ではなく、私服だ。
先ほど散髪をすませた短い黒髪をかきあげ、嘆息を一つして「判った。何時ごろに来ればいい?」と店の人間に確認を済ませた。
身分を証明する為の騎士団印の指輪は身につけているが、そんなものを恥ずかしげもなく出せるはずも無い。
――何より、出したあげくに「で?」などと言われたら目も当てられない。
世の中には誰にも屈することの無い一般人、居酒屋【アビオンの絶叫】の店主のような男もいる。噂によれば、店主であるドラッケン・ファウブロウは第三王子殿下であろうともツケを認めない。
あっさりと午後にまた菓子屋に来店することを決め、フィルドはその足で城下町のはずれにある鍛冶屋へと足を向けることにしたのが、それは間違いだった。
騎士団顧問のエリックが使っているという噂のある鍛冶屋は、町からは幾分離れているが、馬で飛ばして行って帰ってすれば丁度良い頃合に菓子屋に戻ることができるだろうという軽い気持ちで足を伸ばしたのだ。
たまには思い切り愛馬を駆けさせたいと一気にムチをいれて街道を駆け抜け、人の噂をたよりに訪れた開けた丘の上の一軒屋。
「あ、こんにちはー」
鍛冶屋の小屋の入り口、馬の手綱を結わえようと木の枝に綱を引っ掛けていると、決して忘れることなどできないオレンジ頭の糞ガキが反対側から手を伸ばし、まるで邪気もなく微笑んだ。
「――」
「ぼくも馬を繋ぎたいんだけど、あの、あれ? ぼくの顔に何かついてます?」
毎日夢にまで見る相手だ。
不用意なその一言で男好きだとかいう汚名まで着せられ、第二隊の副長と隊長にまで苦言を向けられ、第三王子殿下キリシュエータにまでおかしなことを言われる始末。
日々憎しみを募らせている相手だ。
決して間違ったりしない。
フィルドは口の端がひくひくと痙攣するのを感じた。
「あれ? もしかして、どっかで会ったことあります?」
まさか本気で言っている訳じゃないだろうな?
フィルドは唖然と少しだけ目元を赤くした、一見無邪気なルディ・アイギルを見下ろしてしまった。
これもこいつの罠か!?
――……いいえ、ただの阿呆な子です。