その2
先ほどまでは他の隊員もいたというのに、いつの間に気付けばその場にいたのはルディエラと――そしてティナンだけだった。
第三隊の隊長であるティナンと、現在役立たずまっしぐらのルディエラの二人きり。
ルディエラは我知らず口元に媚びへつらうような笑みが浮かびそうになった。
……会話がありません。
いや、会話など無くていいのだ。正しい上官と部下の立場として、無言でいるのも悪くない。などと脳内で思っていられたのもはじめのうちだけで、ルディエラはやがて話題を探そうと口を開いてしまった。
「あ、あの……隊長」
おそるおそる話しかけると、ティナンは切れ長の冷たい眼差しをお荷物騎士見習いへと向けた。
「何か?」
――うわー、絶対零度だ。
ルディエラはしゅんっと肩を落とし「何でもありません」と小さく応えた。
馬の世話を終えて、その日の日誌を書くために隊舎に戻り、自分の机はないので部屋の片隅でせっせと日誌と報告書とか書いていたのだ。
そして当初は確かに他の隊員もいたのだが、気付けばティナンと二人きり。
報告書を書くのも手間取るルディエラだった。
そしておそらくティナンが食堂にも風呂にも向かわずにその場にいるのは、手の遅いお荷物隊員をまんじりと待っているのだ、上官として仕方なく。
副長っ。酷い。どうしてぼくを一人にするんですかっ。
と、本日は馬のボロに片足を突っ込んでしまい早々に「風呂ぉぉ」と叫んでいたベイゼルへと恨み言を向けても仕方あるまい。
がりがりと粗い紙にペンを走らせながら、ルディエラはちらちらと兄を伺った。
――兄さま、兄さまっ。
顔を合わせればいつだって微笑んでその両手を広げてくれた兄だった。優しい手で頭を撫でて「いい子にしてたかい?」と言ってくれた兄だった。
今は冷たい目で見ています。
おそらくルディエラの旋毛の辺りをじっと睨んでいる。
――ここで泣いたら駄目だ。そもそもぼくはいったいいつからこんなに泣き上戸みたいに弱くなったんだ。こんなことじゃ立派な騎士になんかなれないぞ!
いや、なれるとまでは思ってない。それでも少なくとも本物の騎士達と三ヶ月も共にいることができるのだ。
騎士に混じり、騎士の訓練を受けることができる!
体力だってつくし、筋肉だってつく。なにせ周りは筋肉質だ。汗臭さもなんのその、ビバ筋肉天国。
それでいいじゃないか。
よし。行け! 突き進め。偉いぞルディエラ。がんばれルディエーラ。強いぞルディエーラ。
ルディエラはとりあえず脳内で謎の歌をつくりあげ自分自身を盛り上げてみた。
完全な現実逃避だったが、生憎と完璧とはいえなかった。
「すごいぞーぼくらのぉルディエーラ。
兄さまの底意地悪さなんてへぃちゃらだーい」
心の中で謳っていたものが、最後には口をついて出ていたのだ。
「――ほぉ」
低く唸り声に、ぎくりと身がすくんだ。
慌てて顔をあげると、ティナン隊長は冷ややかさに更に磨きをかけてルディエラを見ていた。
「アイギル、君の兄は底意地が悪いのかい」
「……」
「どんな兄だか聞かせてもらえるかな」
つかつかと長靴を打ち鳴らして近づいたティナンは、完全に退路を失ったルディエラの顎をぐいっと引っつかみ、固定した。
「言ってごらん」
びょぉぉぉぉぉと冷たい風音を耳にいれた気がした。
***
「隊員虐めは止めろといってるだろう」
呆れた口調で言いながらキリシュエータは部屋の扉に手をかけて嘆息した。
「虐められたのはぼくのほうですよ」
「泣きながら走っていったぞ?」
「泣いて走りたいのはぼくのほうです」
恨めしい視線を向けてくる腹心の部下を前に、キリシュエータはぐるりと目を回して天井を睨んだ。
「あー……おまえが泣いても可愛くないしうざい」
「ルディは何しても可愛いですからね!」
「意味不明なぐずりは止めろ。子供かおまえは」
最近壊れているティナンにうんざりとしつつ、キリシュエータはばさりと持っていた書類をテーブルの上に放り出した。
「何です?」
「次兄の外遊の為の警備網と人員についての書類と、次の議会の考察書だ」
ティナンはその言葉に、それまでのなさけない表情を打ち消して真面目な表情になって「失礼します」と書類を手にした。
「外遊といったところでリルシェイナ様ですから、第二隊全部を向けなくてもいいと思いますが」
「そうだな。むしろアレを暗殺する意味も判らん――それでも一応うちの次兄だからな。見劣りしない程度に揃えてやってくれ」
「判りました。第二隊の隊長とそこは話をすすめます」
ぱらぱらと書類をめくる青年はすでに妹馬鹿ではなくなっている。
真面目な副官の姿に満足気にうなずき、キリシュエータはどさりと自分の椅子に座り、眼鏡の蔓を中指の腹でおしあげた。
「それともう一つ」
「なんでしょうか」
「にんじんのことだ――さすがに第二隊の外遊にあれを混ぜる訳にはいかない。一月と言ったが、もう一月おまえが面倒をみろ」
それはもう一月嫌われ続けろと同義だった。
ティナンは恨みがましい眼差しを主に向けたが、ふいに口を開いた。
「その代わり議会員である殿下にお願いがございます」
「女性騎士の登用法案か?」
くすりと笑ったキリシュエータに、ティナンはまるで小馬鹿にするように瞳をすがめた。
「誰が好き好んでそんな法案の提出を願いますか」
「なんだ、違うのか?」
「この国ではつい百年前まで兄妹間の婚――」
「却下」
キリシュエータはくるりと椅子を回して背を向けた。
「ちょっとした冗談ですよ」
「……――」
「冗談ですよ?」