その1
じりじりとした緊迫感がその場の空気をつめたいものへと浸していく。
こくりと動かす喉の音すら、拾い落とすことのない緊張。
ぴくりと指先がためらいがちに動き、息を飲んだ痛みが……――
「うぜぇ! おまえすげぇうぜぇっ」
げしりと無遠慮に長靴がルディエラの足を横から蹴り、
「おまえ絶対にスリーカード以上、俺はおりるっ」
ベイゼルはばさりと持っていたカードを石畳の上に放り出した。
寒風吹きすさび、松明の炎が赤々と辺りを照らし出す宵闇。砦の外を巡る森からは時折フクロウの声が不気味に響いていた。
「えええっ、ずるいですよっ」
ベイゼルはルディエラの手札を高くかったようだが、だがしかし実際はツーペア。Aのツーペアの為に交換で良いカードを引くことができれば確かに勝てるかもしれないと思ったが、それ程顔に出ていただろうか。
ルディエラはツーペア如きで死ぬほどの緊迫した空気をかもし出していた訳だ。
「おまえはポーカーの何たるかを勉強しなおして来い、馬鹿がっ」
鼻息あらいんだよ!
「初心者には優しくしましょうよ」
ベイゼルは乱暴にルディエラの頭をはたき、無駄に緊張したからだをほぐすように腕を回し、ついで首筋をもんだ。
「あー、さみぃっ。酒のみてぇ」
彼等が居るのは南方砦、外部訓練の一環で訪れた先の鐘楼を有する物見台の上――ベイゼルがポーカーで負けた為に彼の下についている総勢七名が本日の見回りに借り出される羽目に陥っていた。
キリシュエータ、ティナン以下残り十名は歓迎という名の宴会まっただ中だ。
そもそも騎士団とはもっと高潔なもので、黙々と訓練に明け暮れるものではないのだろうか。ルディエラは自らの想像とまったく違う現実に溜息しか出ない。
「飲んでばっかじゃないですか」
「それ以外に何しろって?」
「……酷すぎる」
確かに日々の訓練は厳しいものだ。
ルディエラは必死についていこうと躍起になっているが、基本体力の違いをひしひしと感じている。重い荷物に鎖帷子をつけ、鎧を着込めばまっすぐに立つだけで苦痛を覚える。篭手などの重装備をまとって走る訓練などした日には、空腹なのか吐き気なのか理解できない段階にまでもっていかれてしまう。それでも、日々の訓練は騎士団にいるのだとひしひしと感じることができて、喜ばしいことだった。
筋肉もつくし。
だが、どうも思っていた程真面目な場ではない。
筋肉の話題を出すと怒るし。
「アイギル、酒貰って来い。酒」
「ぼく達は仕事中です」
「おまえなぁ、こんな僻地で見巡りしたってだーれもこねえよ! 裏手の山の向こうは切り立った崖だし、しかも一番近い他国っつったらイリーシェス妃殿下の母国じゃねぇか。襲撃とか無い無い」
ひらひらと手を振るが、実際彼等の国が他国と領土を争ったのは、すでに十年近く前の話だ。今は表面上協定が結ばれ、商人の行き来もある平和な時代だ。騎士団の存在意義はもっぱら王宮警備であり、今回のように四方砦におもむくのはただの視察だといわれている。
「酒!」
がうっと噛み付くように言われ、ルディエラは嘆息して立ち上がろうとしたが、それを押し留めたのは一緒にカード遊びに興じていたユージンだった。
「俺行きますよ」
穏やかな先輩の言葉に、ルディエラは慌てた。
「ぼく行きますからっ」
物静かなユージンに行かせる為にぐずった訳ではない。ただ、見まわりをしていると言うのに酒など飲みたいと騒ぐベイゼルを非難していただけだ――見まわり中に自分も含めてポーカーをしていたのはとりあえず棚にあげる。
にやにやとしたベイゼルが更に笑みを深めた。
「鐘楼の幽霊には気をつけろよな」
「幽霊なんていませんよ、馬鹿らしい」
「いるって。ここには昔っからいるんだよ」
「ハイハイ。幽霊を見つけたらとっ捕まえて見世物小屋に売り渡してやりますよ」
ふんっとルディエラは顔をそむけたが、その話はこの砦に来る前から何度も他の隊員から聞かされた。
物見台の警備中に同僚に言い寄られた挙句階段で転がり落ちて首を折って死んだ無念の霊が寂しさに仲間を呼ぶのだと……
まったく馬鹿らしいが、口々に耳にいれられた為にほんの少しだけ「本当かも」という思いがよぎる。
もし幽霊など出たのであれば、金貨一枚二枚にはなるかもしれない。
ルディエラは嘆息しつつ、ランタンを一つ手に石階段をとつとつとおりた。
上に続く階段は鐘楼へと続き、下までの三階層分はただ螺旋階段が続く。冷たい空気が下から吹き上げるような感覚に身震いし、ふいに下からぽつりと現れた光にルディエラはびしりと体を硬直させ、ゆらゆらとそれが近づいてくる感覚にぶわりと鳥肌をたてた。
――鐘楼の幽霊!
いや、そんな馬鹿なっ。幽霊なんて居ない。
子供の頃に次兄がよくからかって言ったものだけれど、キャーキャーと脅えるルディエラに長兄が優しく「そんなものはいないよ」と根気良く言ってくれたものだ。
その足先でぐりぐりと次兄の手の平をふんずけながら。
ああ、なんでもいい、とっ捕まえて売る!
クインザムが居ないと言っているのだから幽霊なんていやしない。だがしかし、もし本当にいるのであればそれはすなわち、レアアイテム。
商魂逞しいルディエラは瞬時にそう判断した。
持っていたランタンを投げつけ、腰に下げた短剣で攻撃をしようとした途端「うわぁっ」と声が上がった。
「うわぁぁ」
その声に驚いてルディエラも悲鳴をあげたが、実は驚いたのは突然ランタンを投げつけられたキリシュエータだった。
「おまえは、本気で殴るぞ」
投げつけられたランタンを危ういところでひょいと避けた第三王子殿下は引きつった笑みを浮かべた。
「トウモロコシの髭っ」
叫んでから慌てて口にフタを閉めた。
「な、何をしてるんですか。殿下」
「少なくともランタンを投げつけられる為に来た訳じゃないな」
引きつった殿下は破壊されたランタンを忌々しいという様子で見つめた。
「おまえは? 花摘みか?」
ふんっと鼻を鳴らしていう相手の言葉に、ルディエラは瞳をまたたいた。
「なんでこんな時間に花を摘みに?」
脈絡の無い単語にしか思えずに素直に言えば、キリシュエータは一瞬奇妙な顔をし、ついで視線をそらした。
ルディエラは貴族階級に属する娘ではない。
父親はもともと傭兵であるし、家族は男ばかりだ。社交という場にもなじまない為に淑女が頬を染めて「花を摘みに」と厠へと行くことなど馴染みの無いことなのだろう。
キリシュエータ自身、どんな言葉で飾ろうとも厠は厠だろうとしか思っていない。浴室や部屋の片隅に置かれているツボに用があるならあっけらかんとそういえばいいとすら思うのだが、女性達は頬を染めて視線を逸らし「あの、お花を摘みに……」などと言うのだ。
阿呆らしい。
「――そうか、いや、うん。私が悪かった」
キリシュエータは素直に謝意を口にした。
相手は野生のサル――もとい、土に埋まるにんじんだ。厠に行きたくば率直に言うだろう。実に男らしく。
「で、どこに行くんだ?」
ランタンはすでに破壊されつくしている。灯りといえば自分が持つランタンだけだ。だから共に行くしかあるまいと尋ねれば、ルディエラはぽんっと手を打った。
「ああ、忘れてた」
どうやら脳みそは鳥並みだ。三歩歩けば忘れるらしい。
冷ややかに笑うと、ルディエラは無邪気な口調で言った。
「お酒をもらいに」
「おまえは飲むな!」