その1
「う、馬屋番が懐かしい……」
ルディエラは心底疲れきった口調でぐったりと馬の背中にもたれかかった。馬特有の体臭とほかほかとした体温が実に心地よい。
馬屋番もきつかったが、体中が痣だらけになったり痛みに歯を食いしばるようなことは無かった。
今といえば、毎日の訓練についていくのに四苦八苦して喘ぐ毎日だし、どんな訓練も追加訓練を言い付かってしまう。夕食はなんとか誰かがとっておいてくれるのだが、それを食べるよりもむしろ眠りたいというくらい空腹だか何だか判らない現状が続く、四日目。
そう、まだ騎士団に入り込んで二週間も経過していないというのに自分の体ときたら笑う程ぼろぼろだった。
――何より!
「おまえ、男好きだって公言しないほうがいいぞ?」
誰がそんなことを公言しているか!
まったく意味の判らない忠告に、頭の中がパンクしそうになったものだが、こんな誹謗中傷などに負けてなどいられない。
騎士団というのはもっと高潔なものではなかったのか?
男臭いし粗野だし!
いいことがあるとすれば、それは筋肉だ。さすがに皆鍛えているだけあってうらやましい程の筋肉をそなえている。ぜひとも腹の腹直筋が蟹の腹のように割れているのを見たいものだが、何故か男好きだと思われている為に、誰しもがルディエラに見られることを嫌がるのだ。
「あんだ?」
近くでがしがし馬の腹にブラシをかけていたベイゼルがルディエラの視線に冷たく返す。
「副長は見た感じ筋肉質じゃないですよねー」
「おまえその筋肉重視の視点はどうにかならねぇのか? 気持ち悪い。夢に見そうだ」
正確に言えば、ベイゼルはすでに悪夢に悩まされている。
「筋肉が正義―っ」
という仮想敵一個師団が襲ってくるのだ。これが実戦だとしたら、ベイゼルは頭を地面にこすりつけて敗北を表現するだろう。筋肉教に勝てる気はしない。
「副長は筋肉のよさがわかってない」
「わかりたくねぇよ」
何故誰も理解してくれないのだろうか。そもそもセイムだって筋肉の話は嫌がっていた。それはセイムがあまり筋肉質でないせいだと思っていたのだ。男ばかりの世界ではきっと皆筋肉の話に熱くなり、筋肉の話で盛り上がれると思っていたというのに、ここにきてはじめて筋肉は万国共通の素晴らしいものではないのか、と自分の信念が揺らぎ始めてしまった。
「騎士団に所属すれば、もっと筋肉天国だと思っていたぼくの夢をいったいどうしてくれるんですか」
「おまっ、頭おかしいんじゃないのか? いい加減に筋肉に固執するなっ」
「脈動する背筋、上腕二頭筋」
うっとりと夢見るように呟きながら、馬の筋肉を愛おしそうに撫でるルディエラの姿はまさに――つやっぽくもオソロシイ。
「あああ、顧問の筋肉が懐かしい」
「おまえは筋肉だけで人間が見分けられそうだな」
「あ、それ面白そうですねー。騎士団の皆さんの顔はいまいち覚えてないですけれど、体は覚えられるかも」
「その卑猥な感じの言い方やめろーっ」
ルディエラは楽しい会話を止めるような怒鳴り声に唇を尖らせた。
そしてふっと馬房の外を眺めたルディエラは、一瞬のうちに通り過ぎた素晴らしい大胸筋に「ぶふーっ」と口から奇妙な音を出しそうになってしまった。
慌てて馬の後ろ側に回り込み、だらだらと流れ出る汗をなんとかやり過ごす。
「何してんだよ?」
「スゴイです、ぼくってば本当に筋肉だけでヒトがわかる!」
「はぁ?」
「……なんでもありません」
今の特徴的大胸筋。上腕二頭筋、上腕三頭筋、そして素晴らしい腹直筋!
あああ、服の上からでもなんて素敵なのバゼル兄さまっ。
ルディエラは必死に身を縮めてなんとか相手がそのまま姿を消すのをまった。この姿をバゼルに見せる訳にはいかなかった。
切られてしまった短い髪。騎士団の見習いの隊服。
バゼルは兄弟の中で一番ルディエラにオンナラシサを求める兄だった。一番筋肉質で男らしい次兄だが、一番「愛らしい」ものを愛しているのだ。ルディエラが筋肉愛なら、バゼルは愛らしいもの愛! そんなバゼルはルディエラが自分の前で少年っぽい格好をするのすら嫌っていた。
西砦に在勤している為滅多に顔を出すことはないが、顔を出すときは決まって物凄い量の愛らしいドレスやら小物やらを携え、バゼルが家に滞在する間ときたら、ルディエラはいっさいの男臭さを手放さなければいけないのだ。
大好きだが、一番苦手な兄。
あの筋肉はとても素晴らしいのに、何故バゼル兄さまはあんなに残念なヒトなのだろう。などと一番残念な思考回路を持つ自分をすっかりと棚にあげている。
少なくとも、筋肉愛、筋肉正義のルディエラにだけは「残念なヒト」などといわれたくないだろう。
「せっかく可愛く産まれたんだから、おまえはレースにまみれて生きろ!」
と熱心に言うバゼル。
ルディエラの髪をまさに神業で編みこむのが上手なのもバゼルだった。あの無骨そうな指がどうしたらあんなにも美しい編みこみを作り出せるのかが謎だが。
「アイギル?」
「……よし、行った!」
どきどきしながら確認をとり、ルディエラは自分の平べったい胸をなでおろした。バゼルに発見されたらこの髪の言い訳だとかこの隊服のいいわけだとかでたいへんだ。
隊服をはぎとられたあげくひらっひらのドレスを着せられたらたまらない。そもそも、なんだって西砦の兄がこんな場にいるのだろう。
――それは定期報告の為に顔を出しているのだが、そんな恐ろしい定期報告が週に一度存在することすら知らないルディエラだった。
絶対にバゼル兄さまと顔を合わせてはいけない。
ルディエラは心の中でしっかりと確認した。
***
「よぅ、ティナン」
自分よりも頭二つ分は高い位置からかけられた言葉に、ティナンは腹の底がひやりと冷めた。
「バゼル兄さん」
「家に寄ってから来たんだけどな」
バゼルはつんつんと跳ねる髪をわしゃわしゃとかき混ぜ、眉をひそめた。
「おまえ知ってたか?」
何を言われるのか覚悟しながら、ティナンは冷静さを装って兄を見た。
「何をですか?」
「ルディエーラが旅行に出てるって? せっかくあの子に土産を持ってきたのに、がっかりだ」
「り、旅行ですか?」
「ああ、セイムが言ってた。なんだ、おまえ知らなかったのか?」
――セイム!
思わずティナンは心の中で感謝の祈りを捧げてしまった。バゼルにはさすがに「騎士になる為に騎士団官舎にいます」と言えなかったのだろう。なんて世渡り上手。
「それにしても、旅行って――何故セイムを連れていかないんだ。世の中は危険だというのに。護衛を他に雇ったとか言っていたが……ルディエーラの警護はもともとセイムだろうに。あの役立たず」
いやいや、十分役に立っている。
給料を減らすべきだというバゼルのぼやきに、ティナンは減らされた分は増やしてやろうと決めた。
「兄さん、こんなところで愚痴っていないで、早く仕事を終えないと」
「ああ、そうだった。そうだ、家に行ったらクインがいた」
さらりと言われたことに、ティナンは噴出した。
「なっ、兄さんが?」
長兄、クインザム――父親を含めて唯一所領と騎士以外の爵位を所有する兄は、いつも各所の領地を見回ったりしている為に不在がちだった。
「驚くことじゃないだろ? なんだかおまえに話があるから家に来るようにって頼まれた」
「……はあ」
「なんかやたらとにこやかだった。おまえ何かした?」
――身に覚えがありすぎる。
「一緒に行きませんか?」
バゼルの前ではさすがにクインザムもルディエラの件を言及できまいと引きつり笑顔で提案したが、バゼルは「何したか知らないが、説教は受け流せ」とにやにやと笑い、ティナンの肩をばしばしと叩いた。
――受け流せるだろうか。
いろいろと不安だ。