その5
「おとーさま」
太陽の光にきらきらと輝くオレンジ色の髪。
小さな手で花を摘んで、ぱたぱたと駆け寄る愛らしい娘。「おとーさま。ルディは素敵な花嫁さまになるの。すっごい綺麗になっておとーさまと結婚するの」と、ルディエラが言っていたのは四つまでだった。
「おとーさまっ」
久しぶりに遠征から戻ったエリックの元に駆けてきた彼の小さな宝物は、その時すでに兄の着古したズボンにシャツ姿で、それでも瞳をきらきらさせて言った。
確か、もうまもなくで五つになろうかという頃合に。
「おとーさまっ、ルディは剣がほしーっ」
「そんな危ないものは駄目だ」
咄嗟に言ったが、途端にルディエラは瞳を潤ませて見上げてくる。
「だっておとーさま。ルディはおとーさまみたいに強い剣士になりたいの。大好きなおとーさまみたいになりたいのっ」
――その時のエリックは鼻の下を無様にでろーんっと伸ばし、脳内では花が咲き誇っていたに違いなかった。
娘とは何故ここまで可愛いのか。
長男は怖いし、次男は自分に似すぎているし、三男は可愛くないし、四男はわけが判らないし……と、息子達が父の頭の中を覗いたら、結託して墓穴を掘り出しそうなことを父は考えていた。
「そうかー、おとーさまみたいになりたいのかー。おとーさまがそんなに好きかぁ」
「うん! おとーさま大好きっ。おとーさまみたいにルディすっごく強くなるっ」
「うんうん、いいぞぉ。大好きなおとーさまみたいな強い騎士になろうなぁ」
軽々と抱き上げてくれる優しい父。逞しい父。
「筋肉は正義―っ!」
自分の声でばちりと目を覚ましたルディエラは、そこが兵舎にある自室――正確に言えばベイゼルと共有する部屋の寝台だということに気付いた。
ばちりと目をあければ、薄暗い天井。窓を見ればカーテンの向こう側はほの明るく明け方であることが知れる。
そして、更にカーテンの向こうで「うぅぅ、やめろぉぉ」と何故か苦しそうな声が漏れ聞こえ、ルディエラはもぞもぞと体を起こしてカーテンを開き、反対側の寝台で呻いているベイゼルに顔をしかめた。
――悪夢でも見ているのかもしれない。
その点、ルディエラは良い夢を見た。夢の中で父に鍛えてもらっている夢だ。夢の中のルディエラの腕にも足にも理想的な筋肉がしっかりとついていた。それを思い返すとうっとりとしてしまう。だが現実を見れば、自分の腕はいまいち筋肉質ではない。やせっぱちの腕は無駄な贅肉がちょろっとついている。どうしてこの贅肉が落ちないのかが不思議だ。固くてきわめて伸縮性の優れた筋肉をぜひともつけたい。深い溜息を吐き出し、今度は窓辺のカーテンを引いた。
本日は天気がよさそうだ。
ほんの少し霧が出ているようだが、きっと晴れるに違いない。
体調もすこぶるよさそうだし、気分もすっきりとしている。今日は絶好調だ。
***
「なんでおまえはケロっとしてんだよ!」
朝の身支度を終えて食堂に行くと、何故か色々な人間から声を掛けられた。
「え?」
「二日酔いとかないのか?」
「ああ、ぼくお酒強いんですよ」
ルディエラはさらりと流した。
好きではないが強いらしい――セイムが「おまえは飲むな。酒が無駄だから」と言っていた。確かに途中で記憶はふっとんでしまうが、そのかわりのように翌朝はやたらと爽やかだし体も軽い。
味は好きではないが、これから毎日飲むのもいいかもしれない。
「おまえみたいなのは酒が強いって言うんじゃない!」
ベイゼルは顔色が悪かった。
あげくその顔面にはどこかでぶつけたような痣まであるのだ。
「喧嘩でもしたんですか?」
「……したくてした訳じゃねぇよ。風呂場で隊長と鉢合わせした挙句、問答無用で殴られただけだ」
その言葉にルディエラは驚いた様子で瞳を幾度もまたたかせ、軽く首を振った。
「副長が何か悪さしたんでしょ。隊長が訓練意外でそんなことするなんて考え付かない。ちゃんと謝ったほうがいいですよ?」
「――おまえはほんっとうに可愛いヤツだな!」
ぐーすかと気持ちよく寝こけている馬鹿娘の着替えをさせていたところでティナンが風呂場を訪れ、問答無用で襟首を締め上げられた挙句に殴られたのだと言ってやりたかったが、着替えさせたことすら忘れている様子の相手に何を言ったところで無駄だ。
何といっても、朝の挨拶で爽やかにルディエラは微笑んだ。
「おはよーございます。いい朝ですね!」
「……」
その笑顔を見ただけでベイゼルは悟ることができた。
――こいつ、なんっにも覚えてねぇ!
隊員の一人にからんだことも、キリシュエータにくってかかったことも、当然ティナン隊長に「大嫌い」とやらかしたことも!
ぐったりとしながら朝食のプレートを手に歩くベイゼルの後をひょこひょことついて行くルディエラだったが、その間も他の騎士達が面白そうにこちらを見てくることに眉をひそめた。
「副長」
「あんだよ」
「昨日何かしたんですか? なんだか皆にやにやと見てますよ?」
「おめーだよ!」
さすがにベイゼルはくるりと身を翻し、びしりと指を突き付けた。
「おまえが酒かっくらって隊員の一人を脱がそうとしたり、殿下を優男呼ばわりしたり、挙句の果てに隊長を大嫌いって言ったんだよ!」
その内容に、ルディエラはじっとベイゼルの瞳を見つめたが、やがて大きく息をついて首を振った。
「ぼくがそんなことするわけないですよ」
「――」
「それにぼくお酒飲んだらすぐに潰れちゃうんです。どうしてそんな意地悪言うんですか?
そもそもぼくがどうして服を脱がそうなんて? 隊長を嫌い? そんなことあるわけない」
どこまでも爽やかな笑顔で言われ、ベイゼルは脱力した。
駄目だ――こいつ本気で酒癖悪いことを理解していない。
しかし、ベイゼルが忌々しいとばかりに列挙した事柄が、どうやら事実であるらしいことをルディエラはすぐに思い知った。
「オレに近寄るな!」
隊内一ガタイのいい男、ルディエラに衣類を剥ぎ取られそうになったダレサンドロが、ルディエラが近づくと物凄い勢いで逃げるようになった為だ。
ルディ・アイギル――男好き説絶賛浮上中。
「あ、それよりも」
「あんだよ!」
「昨日の酒場の代金ってどうなったんです?」
朝起きたら自分のブーツの金貨は無事だった。そこだけが気がかりだった。潰れてしまうのは現実逃避だったが、逃避できない現実だってある。
「さぁな。どうせ殿下あたりが払ったろ」
ベイゼルは気にするなと軽く手を払った。
あの状態で――可愛い妹に「大嫌い」攻撃をくらってしまったティナンに他に余裕があるとも思われない。
タダ酒を飲みに来てすべての代金を支払わされたキリシュエータは容易く想像がついた。
相手は殿下であるし、気にするなと言われたことに気をよくして、ルディエラはもうそのことは忘れることにした。
ほら、やっぱり潰れてしまって良かった。
体調はいいし、代金は払わなくて良かったし!
――そう思っていられるのは自分に芳しくない噂があることを知る三日間の間だけであったが。
***
「おにーちゃまっ」
ちっさな妹は舌足らずに両手を伸ばして抱っこをせがんだものだった。
たいていは長男が当然のように抱いて移動していたものだが、下におろされる短時間にぱたぱたとやってきてはティナンの足に張り付いた。
「にーさま。大好きっ」
あけすけな愛情表現で愛らしく言っていた妹。
「だいっ嫌いぃぃぃ」
この耳の奥でこだましているのはきっと幻聴。幻聴だ!
「食べちゃいたいくらい可愛い妹の口からそんな暴言がでる筈はない! そうですよね、殿下!」
「私に聞くな、頼むから」
ティナンまだまだ廃人中。