その3
元騎士がやっている兵舎にほど近い場にある居酒屋――【アビオンの絶叫】は元騎士と諜報を生業としていた女達数名の居酒屋で毒味など一切気に掛けることなく楽しめる店の一つだ。
決して広くは無い店内だが、騎士達で今はひしめき下らない喧騒が満ちている。
そして、それは突然のことだった。
ちびちびと酒を飲んでいたルディエラだったが、ある時を境に――判りやすく言えば、隣にへたくそな変装をした王子殿下が座ったあたりから、自棄のように酒を飲み始め、ふとキリシュエータが眉間に皺を刻んだところでそれおこった。
「ぬげっ!」
ふふふふふっと微笑を湛えたルディエラは、突如すくりと立ち上がると、少し離れた場所で陽気に酒を飲んでいた一番体躯のいい平騎士の裾をぐいと掴み、「脱げ」と言ったのだ。
一瞬場に静けさが舞い降りた。
キリシュエータはまったく意味がつかめず、眼鏡がずり落ちるのを感じた。
その時のルディエラの表情ときたら、嬉々として追いはぎよろしく相手から衣類を剥ぎ取ろうとしている。
「ぬげ、ぬげっ、ケチケチするな!」
「うぎゃあっ」
助兵衛なおっさんのような台詞を吐き出し、新入りが目を据わらせて極上の微笑を湛えて脱がしにかかるという悪夢に、つかまったダレサンドロは悲鳴を上げた。
しかも他の人間は程よく酒が入っている為にゲラゲラ笑いながら「やっちまえーっ」「貞操の危機だ、にげろぉ」と無責任な野次を飛ばしている。
「な、なんだアレは」
呆然としたキリシュエータだが、このままではいけないだろうと席を立ってルディエラの肩に手をかけたのだが、目のすわっている酔っ払いときたら王子殿下を睨みあげた。
「優男に用はない!」
「なっ、何をしているんだ、おまえは」
「いーですかー! 世の中は筋肉です。筋肉でできているのでーす! 筋肉が正義、筋肉が愛、筋肉が平和!」
筋肉を隠すなど言語道断! 世界平和の為に筋肉は晒すべきである。
超理論の展開に周りの人間は腹を抱えて笑っている。
「筋肉の無い者に人権など無い!」
「おまえ、自分を棚にあげてなんということを」
「なんだとぉっ! ボクは筋肉質ですよ、鳥肉だってゆで卵だって食べているんですよっ。人の努力を馬鹿にするなっ」
言うや、おもむろに脱ごうとするものだからキリシュエータはギョッとしてその手を引っつかんだ。
「やめろ、この酔っ払い」
「酔ってるわけないだろ! こっちは冷静ですよ、ははは。ヘソで茶が沸くくらいレーセーだ」
「まったく意味が判らん!」
新入りと軍事将軍の掛け合いに周りの男達はのたうちまわる。
しかし、この中にあって一人、絶対零度の冷ややかさを持つティナンはゆっくりとその騒ぎに近づくと、厳しい眼差しでルディエラを睨みつけ、ついで手にしていた酒瓶の中身をどぼどぼとルディエラの頭からぶちかけた。
「いい加減にしろ、この酔っ払い」
シンっと、それまで騒がしかった騎士達が息を飲み込む。
酒の場では無礼講。どんな騒ぎになったところでティナンが隊長風を吹かせて仲裁に入ることなどない。だが、そのティナンが騒ぎの元凶に怒鳴りつけ、あまつさえ頭から酒を掛けた。
――騎士達にしてみれば、二人の仲が悪いのは周知の事実だ。だが、この場で相手の行動を諫めに入るとは思ってもいなかった。
それまで他で馬鹿騒ぎに興じていたベイゼルまでもが嘆息し、ルディエラを回収しようと足を踏み出しかけたが、その場の空気をまったくかえる行動を――ルディエラはしでかしたのだ。
「大っ嫌いぃぃぃ!」
うわーんっと号泣した挙句に物凄い大音量で叫んだのだ。
ぶふっとどこかで誰かが噴出すのを皮切りに、皆必死で笑いを堪える。まるきり子供のように嫌いなどという台詞を吐いた当人はぐしぐしと泣きながら、ティナンを睨みつけて「大嫌いっっっ」を連発し、言葉を叩きつけられているティナンは顔面蒼白、茫然自失の様相で軽く手を持ち上げたまま立ち尽くしていた。
キリシュエータの視線が少しばかり同情を込めて幼馴染を見て、ついでこの酔っ払いを外に連れ出すべきだと判断して動こうとしたのだが、笑いを堪えられずにぶふぶふと奇妙な音をさせているベイゼルがそれより先に濡れ鼠の襟首を引っ張った。
「隊長、これはさっさと風呂に叩き込んで休ませますからー」
「……」
「んじゃ、後のことは頼んます」
「……」
ふえーんっと泣くルディエラを軽々と小脇に抱えるようにして出て行くベイゼルをティナンは見送ることもできなかった。
……大っ嫌い。
脳裏に鐘楼の鐘のように言葉が響き渡り、その瞳は完全に瞳孔が開いている。
キリシュエータは軽く嘆息しつつ、その顔の前で手を振ってみたが、幼馴染の反応は無かった。