その5
もう、駄目だ。
もう帰ろう。
ルディエラは寝台の上に両膝を抱えて座り、膝頭に強く額を押し当てながら自分の内面と戦っていた。
へこたれるな、負けるなという自分。大好きな相手に嫌われてまで無駄なことをする意味など無いと喚く自分。
――このまま軍にいたところで。決して軍属でい続けることはできない。
そんなことは理解している。けれど、それでもこの空気に触れていたいと望み、またその不毛さに叫びだしてしまいそうになる。
カーテンの向こうに副隊長はいない。
夕食を済ませた筈だが、戻って来る様子は無い。
だからそれをいいことにルディエラは一人で黙々と孤独と戦っていたのだが――やがてそれは一つの小さな音によって破られた。
こんっと、ためらいがちな音。
ついでこんこんっと続いて。そのまま扉が遠慮がちに開いた。
「いるのか?」
おずおずとした声は、あまり覚えが無い。
――正確に言えば、ルディエラは下働きばかりであるから騎士団の人間と親しく会話を交わしたことは無い。
きちんとした紹介も受けていないのだ。
ただ、見習いとして入った者がいるとだけしかティナンは言ってくれなかった。その為か騎士団の人間はベイゼル意外よそよそしくルディエラを避け、話しかけてもくれない有様だった。
「チビ」
だからおそらく名前も覚えられていない。
はじめは遠慮がちだった声が部屋へと入ってくる。
ずかずかと入ってきた足音は一人のものではなく、数名――三人だ。気配でそれをさぐりながら、わずかに湧き上がる恐怖にぶるりと身を震わせた。
ざっとカーテンが引かれると、ついでふわりと美味しそうな香りがルディエラの鼻腔をくすぐった。
視線をあげた先、まだ年若い騎士達が普段着姿でぎこちない笑みを浮かべ、そのうちの一人は食事用のプレートを手に軽く手をあげた。
「メシ、食ってないだろ?」
「……あの、ぼくに?」
戸惑いながらプレートと相手の顔とを幾度も確認するように見れば、照れくさそうに笑った。
薄暗い部屋であまりわからないが、確かに第三隊の人間だ。
「ワリィな。オレ達おまえと話すな、近づくなって言われててさ」
「それに、おまえって特別待遇の縁故か何かなんだろ?」
「ま、気に入らないってのは確かにあるんだよ――でも、さすがにちょっと悪いと思ったから」
口々に言われて驚きながら、ルディエラは押し付けられたプレートを寝台の脇に置いた。
「あの、ぼくと喋っちゃ、駄目だったんですか?」
「――ま、ティナン隊長もちょっとどうかと思うけどさ。気持ちは判るからさ」
「でもおまえがんばってるよ。隊員の馬の世話も、掃除だって本来なら士官学校の連中の仕事なんだよ。しかも二人一組でやるんだ」
ああ、やっぱり。
はじめてまっとうに他の隊員と会話を交わしながら、ルディエラの心は喜びと悲しさに満たされた。
――無視するようにと命じつけまでしたのだ。
殿下は「いじめ」だと言った。「いじめ」の筆頭が兄であることは疑いようが無い。
「冷める前に食えよ」
うながされて、慌ててうなずきながらルディエラは泣き笑いの顔で礼を言った。
「ありがとうございます」
「お、おうっ」
ぺこりと頭をさげると、途端にぎこちなく返答が返り、ついでルディエラの頭にぽんっと手が乗った。
「殿下がとりなしてくれたから、明日からは下働きみたいな仕事じゃなくなるってよ」
「良かったね」
「おまえがんばってるよ。皆、ちゃんと判ってるからさ」
口々に言いながら、あわただしく出て行く彼等を見送りルディエラは必死に留めていた涙を数粒落とした。
――がんばろう。
もともと、判ってたことじゃないか。
うん。がんばろう!
――三ヶ月、ぼろぼろになって軍に嫌気をさして帰って来い。
セイムはそう言っていたじゃないか。
もっともっとほろぼろになって、もっとがんばろう!
「よしっ。食べよう!」
兄に嫌われてもいい。その分自分が兄を大好きでいよう。
大丈夫――大丈夫だ。
根拠の無い大丈夫を呪文のように繰り返し、ルディエラは差し入れられた食事を余すことなく平らげようとした。
「……量、多すぎ」
おそらく好意であろう、普通盛りだとて青年男性の腹を満たすに十分なその食事が、山盛りだった。
「え、これっていじめじゃないよね?」
***
「……邪魔臭い」
ぼそりと落とされた言葉を無視して、ティナンは三つ編みにあまれたオレンジ色の髪を両手で握り締めて幾度目かの溜息を吐き出した。
そう、それは遺髪を手にする遺族のように辛気臭いしぐさで。
「おにぃちゃんは、一刻も早くこんな場所から可愛い妹を引き離したいだけだというのにっ」
「うざい」
「嫌われたらどうしてくれますか。もう全部が全部殿下のせいです。殿下がおかしな気まぐれをおこすから。陛下同様禿げてしまわれればいい」
「人の悪口を当人の前で言うな。ついでに私は母親似だ。その台詞はうちの長兄に言え」
びしりとキリシュエータが言うと、執務室の応接ソファで自棄酒を飲んでいる彼の幼馴染は恨めしいという視線を向けた。
「居ないところで言ったら不敬罪になるから当人の前で言っているのです」
「……当人の前でも確実に不敬罪だろう」
そして陛下の悪口はどうなんだ。
「殿下は妹がいないから妹の可愛さが判らないのですよ。羨ましいですか、ざまーみろですね」
「おまえ、飲みすぎだぞ」
――それに、妹ならいた筈だ。
産まれて数ヶ月足らずで死んでしまった妹。失われた四番目の子供。ただし産み落としたのは父の妾の一人で、女を産み落としたことに絶望し、自ら殺してしまった。
男であればどうだったというのだろう。
すでに上に三人もいるのだ。男を産み落としたところで何も変わらないというのに。
愛妾は王の子を殺した罪で投獄され、処断された。
一度も見たことすらない妹。共に暮らし、生きていれば何かがかわっただろうか。
「うちの妹は可愛いんです」
「おまえを見ていると妹なんてものは持たないに限ると思うな」
「あげませんから」
「いらん」
キリシュエータはきっぱりと言い切り、もう仕事にならないと掛けていた眼鏡のフレームに手をかけてはずし、眉間の辺りを軽くもんだ。
「ルディエーラは誰にもあげません」
「迷惑な兄だなぁ」
「ルディエーラに嫌われたら殿下のせいですからねー」
「……おまえ、明らかに自分のせいだろ」