その4
「腕を一本、貰います」
ぞくりとする宣言に捻られた左腕がぎしりと悲鳴をあげる。
――兄、兄さまっ。
歯をきつくかみ合わせてうめき声がもれそうなその時、
「そこまでっ!」
深く鋭い声がその場に響き渡り、声と同時にルディエラの上にのしかかっていたティナンの体が他の騎士達によって引き上げられた。
ティナンが彼らしくなく舌打ちする音がルディエラの耳に容赦なく届いた。
息が上がって、身が震えていた。
頭の中がもわもわと気振り、耳鳴りが響く。
立ち上がらなければいけないというのに、体は言うことを利かない。左腕がしびれてやけに重く感じられたが――折られる音はしなかった。そう、折られてはいない。
折られたのは、心だ。
兄は本気で、腕を折ろうとしたのだ。
誰かの腕が自分の上半身を引き上げ、立たせようとする。
そこではじめてそれが騎士団の制服ではあるが、他の隊のものであると気付いた。
そして、先ほどティナンを止めたのが――彼等の主であることも。
どこか別次元のもののように視界に入り込む第三王子殿下は、厳しい表情でティナンを見つめ「新兵虐めのような真似を許した覚えはないぞ」と低く告げている。
「ただの訓練の一環です」
言葉を向けられたティナンは無機質な言葉で返した。
吐息を落とすと、キリシュエータはルディエラを支えている騎士に「救護室へつれて行け」と命じた。
「殿下、これは我が隊のこと。余計な手出しは困ります」
「判っていないな、ティナン。確かにこれをおまえに預けたが、潰せと命じた訳ではない。一週間見ていればただの下働き扱い。おまえの率いるのは騎士であって従卒ではない。その挙句にこれだ。少しは頭を冷やせ」
「――」
「確かに特例だろう。突然の人事で不満を持つものもいるだろう。だがその筆頭が隊長であるのはいただけない。おまえの不満で私刑まがいなことを許す程、私は愚かではないつもりだ」
とんっと、殿下の拳が扉を相手にするように気安い調子でティナンの胸を叩いた。
「今日はあれの訓練は終いだ。いいな」
***
「やられたか?」
救護室に引きずられるように連れていかれれば、そこには上半身に包帯を巻いたベイゼルが器用に自分の左手に包帯を巻きつけ、歯と指とをつかって包帯の端をきゅっと結んでいた。
その姿を見た途端、ぐっと腹部に何かがこみ上げてきたが、ルディエラは必死で耐えた。
今も兄の冷たい声が耳の奥で響いていた。
――腕を一本、貰います。
そこまで、嫌われているとは思わなかった。
「ベイゼル、彼のことを任せても?」
ルディエラを連れて来てくれた騎士が問いかければ、ベイゼルが「へいへい」と軽く手を払う。
ルディエラはベイゼルに椅子に座れと言われたまますわり――途端に、奥歯がぎしりと音をさせるほど歯を食いしばった。
そうしなければ無様にも泣いてしまいそうだった。
「どうしたよ? 怪我してんのか? ほら、見せてみろよ。言っとくけど、救護兵を期待すんなよ? 騎士団の人間は皆その訓練だって受けてるんだからよ。自分でやるんだ」
いや、ここの主はいるんだがなー、どうせ薬草園とかにいっちまってるんだよ。
ぶつぶつといいながら、ぱっと見ただけで判る擦り傷の為の軟膏に手を伸ばすベイゼルに、ルディエラは小さく身を震わせながら、小刻みに首を振った。
「ったく、泣きたいなら泣け、うぜー。
痛いなら痛いって言え。他に誰もいねーよ。オレはおまえの副隊長で同室だからな。訓練の愚痴くらいは聞いてやる」
ぐいっと腕をつかまれ、痛みに悲鳴をあげた。
ベイゼルが眉をひそめて袖のボタンを器用にはずして引き上げると、二の腕は赤くなっていた。腫れているまではいかないが、おそらく時間がたてば赤紫の痣になるだろう。
「あー、こりゃ痛いな。ははっ。見事」
言いながら軟膏をぺしゃりとその腕に落とした。
右手で手首を掴み、左手で軟膏を伸ばしていると、小刻みに震えるルディエラの口から小さな嗚咽が漏れた。
うつむいたまま――
「痛い、です……とても、とても、痛い」
堪えきれなくなった涙が、ルディエラの汚れたズボンに滴り落ち、じわりと染み広がった。
体が痛いのではない。心が、痛い。
兄に完全に、嫌われている。妹の腕を折ろうとする程!
そんなに憎まれるなんて思ってもいなかった。
冷たい視線を向けられるなんて。
冷たい言葉を向けられるなんて。
ちっとも思ったことなど無かった。
「隊長容赦ねーからなぁ。ま、明日になれば痛みも忘れる」
軟膏を塗ったあとに驚く程綺麗に包帯を巻きながら、鼻歌交じりに言うベイゼルに、ルディエラはうつむいたまま何度もうなずき、きっとムリだ。と思っていた。
――この痛みは、ずっと忘れられない。
忘れたくとも、忘れることなどできない。