『「お姉ちゃんなんだから」はもうおしまい――灼熱の辺境で極上アイスを売っていたら、実家と元婚約者が干涸びて土下座しに来ました』
「くぅぅっ! 生き返るぜ!」
気温四十五度。陽炎が赤土の道を揺らす灼熱の街、エル・サハラ。
冷菓店『スノー・ベル』には、今日も長蛇の列ができていた。
「シアちゃん! マンゴーをダブルで!」
「はい! 今日もお仕事お疲れさま!」
シアが指を鳴らすと、硝子ケースに白い冷気が舞う。
氷魔法で冷やされたアイスは、絹のように滑らか。黄金色の果肉が甘い香りを放った。
「うめえ! この一口のために働いてるようなもんだ!」
「ふふっ。嬉しい!」
シアは心から笑った。
半年前まで、笑うことさえ忘れていたのに。
『お姉ちゃんなんだから、マイアに譲りなさい』
母の口癖だった。
玩具も、ドレスも、誕生日の贈り物も。妹が欲しがれば、すべて奪われた。
それでもシアは、傾いた伯爵家を支えるため、帳簿を整え、領地の結界を維持し、必死に働いた。
役立たずと蔑まれた氷魔法も、寝る間を惜しんで磨いた。
けれど、婚約者まで奪われた。
『僕はマイアと結婚する。君は可愛げがないんだ』
『お姉様、お姉ちゃんなんだから祝福してくださるわよね?』
母まで冷たく告げた。
『シアは修道院へ入りなさい。家のために我慢するのよ』
その瞬間、心の奥で何かが切れた。
(……もう、いいわ)
翌朝、シアは自分の貯金だけを持って家を出た。
向かったのは、氷が宝石より高価な南の辺境。
そこで初めて、役立たずだった魔法が人々を笑顔にした。
「シアさん、山羊乳を持ってきましたよ」
振り返ると、自警団長のレオンが立っていた。
褐色の肌に、優しい琥珀色の瞳。
行き倒れかけたシアを救ってくれた恩人だ。
「ありがとう! 新作の試食もお願いね」
「あなたのアイスなら、何杯でも」
「もう。褒めてもおまけはしませんよ?」
「では、笑顔だけください」
「……レオンさんったら!」
頬を染めた、そのときだった。
「シアァァ! ようやく見つけたぞ!」
客の列を押しのけ、三人が転がり込んできた。
埃まみれの母。化粧の崩れたマイア。そして、唇のひび割れた元婚約者ルファス。
「……まあ。お久しぶりです」
「水を! 氷をくれ!」
ルファスがカウンターにすがりつく。
「お客様、列の最後尾へどうぞ」
「ふざけるな! 僕は公爵家の人間だぞ!」
「ここでは皆様、同じお客様です」
周囲から冷たい視線が集まった。
母が金切り声を上げる。
「シア! 今すぐ帰っておくれ! 領地が滅茶苦茶なのよ!」
「そうですか」
「帳簿も税金も分からない! 結界まで壊れかけているの!」
「まあ、大変ですね」
「他人事みたいに!」
「他人事ですもの」
母が絶句した。
ルファスが慌てて前に出る。
「僕も悪かった! マイアとの婚約は解消する。君をもう一度婚約者にしてやる!」
「まあ」
シアは目を丸くした。
「マイアを選んだのは、あなたでしょう?」
「彼女のほうが可愛らしかったから……」
「今は?」
「君のほうが有能だったと分かった!」
店先が静まり返った。
シアは思わず笑った。
「ふふっ。正直でいらっしゃるのね」
「だったら!」
「お断りします」
「な、なぜだ!」
「私は、あなたの便利な帳簿係ではありませんから」
「お姉様!」
マイアが地団駄を踏んだ。
「ひどいわ! 私だって苦労したのよ! お母様は怒鳴るし、ルファス様は私を役立たずって言うし!」
「そう」
「お姉ちゃんなんだから、早く帰って助けてよ!」
その言葉に、シアの笑顔が消えた。
レオンが一歩踏み出す。
「シアさん。俺が追い返しましょうか」
「ありがとう。でも、私に言わせて」
シアは三人の前に立った。
「母様。私はずっと、お姉ちゃんだから我慢しろと言われてきました」
「それが長女の務めでしょう!」
「ええ。だから最後に、全部譲って差し上げたんです」
「……何?」
「家も、領地の仕事も、婚約者も。マイアが欲しがったものは、すべて」
マイアの顔が青ざめた。
「でも、そんなの……!」
「欲しかったのでしょう? なら、自分で大切になさい」
「できるわけないじゃない!」
「私には、できて当然と言ったのに?」
誰も答えなかった。
シアは静かに息を吸った。
「私はもう、誰かの犠牲になるために生きません」
母の唇が震える。
「……シア。母親を見捨てるの?」
「母様は、私を娘として見てくださいましたか?」
母は目を逸らした。
「私はずっと、褒めてほしかった。たった一度でいいから、頑張ったねって……」
声が震えた。
「でも、もう待ちません」
熱風が白いエプロンを揺らす。
「ここには、私を必要としてくれる人たちがいます。そして、私もこの街が大好きです」
「シア……!」
「さようなら。もう、お姉ちゃんの役目はおしまいです」
ルファスが赤土に膝をついた。
「頼む! 帰ってくれ!」
母もマイアも額を擦りつける。
「お願いよ!」
「お姉様、助けて!」
シアは首を横に振った。
「お帰りください」
レオンが自警団員を呼び、三人を店先から退かせた。
泣き叫ぶ声が遠ざかる。
シアは、もう振り返らなかった。
「シアちゃん!」
常連の港湾労働者が叫ぶ。
「よく言った! 今日は俺がトリプルを買うぞ!」
「俺もだ!」
温かな笑い声が広がった。
シアは目元を拭い、銀のスクープを握り直した。
「はい! お待たせしました!」
夕暮れ。
客足が途絶えた店先で、シアはレオンに小さなカップを差し出した。
「新作の蜂蜜ミルク。食べてみて」
レオンが一口含む。
「……甘いな」
「甘すぎた?」
「いや。幸せな味がする」
「大げさね」
「本当ですよ」
レオンは真剣な瞳でシアを見つめた。
「あなたが笑っていると、俺まで幸せになる」
「……え?」
「だから、これからも隣で笑っていてほしい」
シアの頬が熱くなった。
四十五度の暑さのせいではない。
「……それって、告白?」
「そう聞こえませんでした?」
「聞こえたけど……!」
二人は顔を見合わせ、照れくさそうに笑った。
「じゃあ、明日も一緒にアイスを食べましょう」
「明後日も?」
「ええ」
「来年も?」
シアは彼の手をそっと握った。
「……ずっと、でもいいわよ」
夕映えに染まる赤土の道。
熱い風が、椰子の梢を揺らしていた。
銀の匙ですくった白いアイスが、二人の舌の上でふわりとほどける。
「冷たいね」
「ええ。でも、心は温かいわ」
遠い日の、かじかんだ記憶。
誰かのために我慢し続けた日々。
そのすべてが、甘く優しく溶けていく。
南の宵空に、一番星がともった。
かつて役立たずと呼ばれた氷魔法は、今や街の宝物。
そして、誰かに譲り続けた少女は、ようやく自分の幸せを手に入れた。
もう、我慢しなくていい。
この人生も、この恋も、この笑顔も。
二度と、誰にも譲らない。




