王太子に断罪されそうなので辺境に逃げたら、得意の古文書修復で国の秘密を全部暴いてしまいました~もう道具扱いはこりごりです~
私はノエル・カルシュタイン。公爵家の一人娘。
王太子様の婚約者だったけれど、なんやかんやで婚約破棄になりました。
……で、今は馬車に揺られています。
行き先はヴァイルハルト領。
カルシュタイン家が名義だけ持っている、辺境の小さな領地。
もちろん誰も私のことを待ってもいないし、迎えも来ない。
当然だ、誰にも行き先を告げていないのだから。
もし誰かになぜ逃げているかと聞かれたら、こう答えようと思ってる。
面倒ごとの前に消えるためだって。
そう、その面倒ごとというのは、私と婚約関係にあったジークヴァルト殿下が、私を断罪するつもりらしい…という話だ。
理由は「聖女イレーネ様への嫌がらせ」。
私がしたのは夜会で一度、服装が乱れていたから善意から声をかけただけ。
それがいつの間にか「聖女に嫉妬して侮辱した悪役令嬢」という話になっていた。
なんでそうなるのか……
……いや、わかっている。原因は簡単。
殿下が聖女に入れ込んでいて、私が邪魔だからだ。
周
囲の人間が空気を読んで話を膨らませた。ただそれだけのこと。
前世の私なら、ここで真正面から反論していたかもしれない。
古文書修復室にいた頃の私は、上司に成果を横取りされたとき、真面目に「これは私の仕事です」と反論した。
だけど帰ってきた結果は、「お前は何もわかっていない。ここの空気が読めないんだな」の一言だった。
確かにそこでは上司には逆らえなかったし、私以外にも手柄を取られていたりしている人もいたらしい。
それは逆らえない社会の縮図だったのだと、最近になって気づいた。
それ以来、理不尽には正面からぶつからないことにした。
……結局、その教訓を守り続けたまま、働いていたらいつの間にか倒れて、気がついたらこの世界の公爵令嬢になっていた。
最初は現実として受け入れられなくて、パニックになっていたけれど、元の世界に戻る方法も見つからなかったし、諦めてこの世界のノエル・カルシュタインとして生きていくことにした。
だから今回はやり直しじゃないけれど、前と同じ轍は踏まない。
この世界では上には逆らわず、うまく生きていく。
理不尽を訴えて断罪されるくらいなら、される前に消えるか逃げる。
ただ私は平凡に生きたいだけ。
幸いにも公爵令嬢という立場が一応あったから、衣食住はどんな状況でもなんだかんだ保障されているし、静かに生きていけばいい。
家族とは幸い仲が良かった。
お父様もお母様も優しい人だし、何不自由なく暮らさせてもらっていた。
ただ今回の件については王家に逆らうことはできず、お父様でもできることと言えば、私を表では婚約破棄からの追放として辺境に逃がし、平凡な生活を送らせることくらいだった。
一人っ子ではなかったし、カルシュタイン家には跡継ぎもいる。
たとえ殿下の元婚約者の嫌われ者の令嬢が行方をくらませても、すぐ話題から消えるだろう。
馬車の窓の向こうで、景色が荒れた平原に変わっていく。
荷物は生きていくために必要な着替えや道具と、前世の記憶を頼りに書き溜めた修復技術の詰まったノートだけ。
煌びやかな宝石もドレスはもう着ることもないし、売ってしまった。
「……まあ、いいか」
未練があるかと聞かれたら、ない。……たぶん。
殿下のことは好きでも嫌いでもなかった。きっと政略のための婚約だ。
慣れはあった。慣れと好意は似ているけれど、違う。
ただ、一つだけ。
朝、屋敷を出るとき、使用人たちが泣いていた。
「お嬢様、本当に行かれるのですか……」って。
使用人たちは、全員名前を覚えている。
メリッサ、ハンネ、クルト、グレーテ。
あの人たちだけは、私を悪役令嬢だとは思っていなくて、優しく接してくれていた。
使用人の子たちには何もないから、黙って置いていくのは少し、胸が痛んだ。
家を出た三日後の昼過ぎ、やっとヴァイルハルト領に着いた。
荒れた石畳、閉まった店。看板が風に軋む音。
想像以上に寂れている。でも空気だけは澄んでいた。
「カルシュタイン家のお嬢様ですか」
声をかけてきたのは、日焼けした青年だった。飾り気のない服、鋭い目。
「ニクラスと申します。この領地の管理をさせて頂いております」
「ノエルです。……お世話になります」
「お世話するほどのものはありませんが。
建物が一つに、工房がいくつか。それくらいです」
愛想はないが、隠し事もしないような素直な青年だ。
社交界の人間よりは信用できそうだと思った。
屋敷は屋敷というより石造りの大きな家だった。
埃っぽいけれど、壁の石組みが古くてこれはこれで味があっていい。前世の目で見ると築百年以上だ。
「工房がいくつか残っています。昔、王家に仕えた職人が使っていたもので、今はもう誰も……あ、いえ、一人だけ残っていますが」
「一人?」
「オルドーという老人です。歳は百歳を優に超えているとか。
元宮廷装丁師だと本人は言っていますが、もう誰も確認できないので真偽は不明です。……少し変わった人間です」
少し変わった人間……そういう人は嫌いじゃない。
ここは人も少ないし、仲良くなれるといいけれど。
その日は荷物を整理したり、して一日がつぶれてしまったので翌朝、そのオルドー老師に会いに行った。
工房は裏手の寂れた小屋だった。
扉を叩いて声を掛けると、しわだらけの顔がのぞいた。
見た目はもうよぼよぼのお爺さんで、大きく背は曲がっていて杖をついているが、目は澄んでいる。
手は節くれだって、インクの染みが残っていた。
(綺麗な職人の手だ……)
「はじめまして、ここに住むことになったカルシュタイン公爵家のノエル・カルシュタインです。これからよろしくお願いします」
「ほう。カルシュタイン家のお嬢さんがこんな辺境に来るとは」
「……逃げてきたんです、お恥ずかしい話ですが」
なぜか正直に言ってしまった。
なんとなく……同じ種類の人間だと感じたから、だと思う。
「逃げるのは悪いことじゃない。馬鹿に付き合って潰れるより、ずっといいさ。まあ何もないところだが…よろしくな」
玄関から見える工房の中は、本と道具だらけだった。
修復途中の帳面、古い装丁道具。膠の匂い。
……懐かしい。前世の修復室と同じ匂いがする。
「……あの、その帳面。背表紙の布が酸化して崩れかけています、替えられた方が良いです」
つい癖で口が勝手に動いてしまっていた。
私の言葉に反応して、老師が目を見開いた。
「お嬢さん…修復ができるのか?」
「……少しですが」
「こんなにぱっと見てわかるのは、少しじゃなかろう」
「ええ……昔から、本が好きで」
「面白いお嬢さんだ。ちょうどいい、見せたいものがあるのだが見てくれんか?」
老師が明るく笑った。
歯が何本か欠けている笑顔だったが、温かかった。
老師に連れられて裏山を歩く。
獣道の先に、岩肌に半分埋もれた石の扉があった。
古い紋章と、読めない文字が刻まれている。
「これはな……王家の第二禁書庫だ。百年以上前に放棄されて、今ではこの存在を知る者もほとんどいない」
そういいながら老師が扉に手を当てた。
しかし扉はびくともせず、何も起きない。
「何度か開けようとしたが、びくともしないんだ。お嬢さんであれば何か分かることはないか?」
「……触ってもいいですか」
「ああ、好きにするといい。こんな場所、もう誰も覚えとらんさ」
扉の石の冷たさ、王家の紋章の凹凸。指先に伝わる感触。
少し触りながら調べていると、かちり、と音がした。
さっきまで老師が触ってもびくともしなかった扉が、ゆっくり内側に開いていく。
その瞬間、長い間溜まっていた埃と、古い紙の匂いが溢れ出した。
「……えっと……開いちゃったんですけど、これ大丈夫ですか…?」
老師が私と禁書庫を見ながら口を開けて固まっている。
「……この百年間、誰にも開かなかった扉が」
「わ、私何もしてないです、触っただけで……壊してしまったのでしょうか」
「触っただけで開いた……だからこそ問題なのだよ、お嬢さん」
老師の声が震えていた。
でも理由を考える余裕はなかった。
目の前に広がっていたものに、頭が全部持っていかれていたからだ。
禁書庫の中に入ると、大きな棚が何十段もそびえたっている。
その棚には古い文献が並んでいる。
背表紙は色褪せ、頁の端が崩れかけている。
でも年数を考えたら、普通よりかは保存状態が信じられないほどいい。
きっと魔法で温湿度が管理されていたのだろう。
「……すごい」
声が震えた。
前世ではこんな状態の良い古文書の山を見たことがない。
「中に入れたのはお嬢さんが初めてだ。わしが入ろうとしてもびくともせんかった」
「……なぜ私だけ」
「それを知りたければ、この中を読むしかあるまい」
前世の私なら「業務外です」と断っていた。
でも今の私には、断る理由がない。むしろ……
「……時間をかけてでも、全部読みます」
読みたかった。
それが、すべての始まりだった。
禁書庫に通い始めて三日目から、修復と解読を同時に進めるようになった。
朝、工房で膠を溶かす。崩れかけた頁をまず補修する。
損傷が激しいものはいきなり読もうとすると頁が崩壊する。
修復してから読む。鉄則だ。
仕事自体は前世と変わらない。
ただ、この世界の紙は前世のものより丈夫だった。
魔力が繊維に染み込んでいるのかもしれない。
老師が隣で作業を見ている。
「刷毛の角度、膠の濃度、乾燥の見極め。独学ではこうはいかん」
「……昔、叩き込まれたので」
誰にも褒められなかったけれど、十二年間、毎日同じことを繰り返した。その蓄積だ。
昼になると禁書庫から出て、工房の前で風に当たった。
辺境の風は冷たい。でも澄んでいるし、空気がおいしい。
王都にいたとき、こんなふうに空を見上げる余裕はなかった。
婚約者の顔色、次の夜会の準備、社交界での噂話。
全部こなしていたのに、全部が虚しかった。
ここには何もない。
何もないことが、こんなに楽だとは思わなかった。
ニクラスが食事を持ってきてくれた。
「そろそろ何か食べなければ、死にますよ」
「……あ、もうこんな時間…ありがとう」
「声をかけたのは三回目です。どれだけ集中していたんですか」
ニクラスは修復と解読に没頭する私に、食事を作ってくれるようになった。
硬いパンと野菜の煮込み。
食事はいつも素朴だったけれど、おいしい。
「ニクラスさんが作ったんですか?なんだか意外です」
「領主代理の仕事に炊事は含まれるらしいですから」
「……含まれるんですか」
「まあ…ここには人手が足りないので。自分のついでですから、あまり気にせず」
優しいことを全くの無表情で言うから、なんだか笑ってしまった。
解読を始めて一週間が経った頃、最初の重要な文書を解読した。
それは「始祖の契約」に関する始祖王の覚書。
それを見つけて読み進めていくうちに、手が止まった。
公式の歴史では、王国を守る結界「聖なる防壁」は王家の血統によって維持されている。
王家あっての国だ。それがこの国の常識。
でも、始祖の覚書にはこう書かれていた。
『防壁の維持に必要な触媒は、カルシュタインの血統より供される。王家の役割は契約の管理であり、触媒の供給ではない。この事実は王家の威信のため秘匿すべし。ただし、真実の記録はカルシュタインの者のみが開けられる封印の中に残す』
カルシュタインの者のみが開けられる封印。
……それが、この禁書庫の扉の封印。
だから私が触れたとき、開いたのか。
手が震えた。
感動ではなく、怒りだった。
つまり王家はずっと知っていた。
結界を維持しているのが王家ではなく、カルシュタイン家の血だと。
それを隠して、公爵家を「忠実な臣下」として縛り付けていた。
婚約もそのためだろう。カルシュタインの血を王家の近くに置いておくための管理。
お父様やお母様からは全く聞いたことがない話だ。
きっともう誰も知らない話なのだろう。どこかで王家が隠蔽して、当の本人たちにも隠していたのか。
「……道具、だったのね。最初から」
前世でもそうだった。
修復技術を使いたかっただけで、私自身には興味がなかった。
この世界でも同じだ。血だけ必要で、私自身は見られていないし、必要ともされていなかった。
でも涙は出なかった。だって怒りが先に来たから。
「……オルドー老師」
「何か、わかったか?」
「……知っていたんですか」
「いや、知っていたわけじゃない。だが推測はしていた。
宮廷装丁師だった頃、カルシュタイン家に関する記録だけが不自然に欠落していた。
これは何か、わざと消された理由があるはずだと、ずっと思っていたのだが……まさかここまでの内容だとはわしも思わんかったさ」
「百年間、扉が開くのを待っていたんですか」
「待っていたというより、諦めていなかっただけさ。……まあ、同じことか」
老師がにかりと笑った。
怒りの感情が体の中でうごめいていたけれど、老師の笑顔でふと力が抜けて、私も笑った。
まだここには隠されたことがあるかもしれない。
それを知るためにはもっと解読と修復を急がなければ。
同じ頃、王都では結界に異変が出ていたらしい。
修復を進めていると、ニクラスがお茶と報告書を持ってきた。
「結界の出力が低下しているそうです。東の国境で農村が一つまるまる避難した、と。王宮では原因不明として対策会議が始まっています」
原因不明。……原因は、きっと私とこの禁書庫だろう。
「もう一つ。これがあなたにも報告している理由です。
ジークヴァルト殿下がカルシュタイン公爵家の行方を捜索するよう命じた、とあります」
やっと気づいたのだろう。
私がいなくなったことと、結界の弱体化が繋がっていることに。
「ノエル様、これは……」
「ええ……これはきっと、私がいなくなったことが原因です」
ニクラスが静かにこちらを見た。
でも、何も聞こうとはせず、静かにこちらを見ていた。
他の人間のように、問い詰めるような目ではなかった。
「でも……申し訳ないのですが、今は説明できません。もう少し、読まなければならない文書があるから」
「……わかりました、ご飯は食べるようにほどほどにして下さいね」
それだけ言って戻っていった。
聞かない。詮索もしない。ただ待ってくれる。
その態度と姿勢がうれしかった。
修復と解読を進めていって、ようやく最後であろう巻にたどり着いた。
最後の巻は、損傷が最もひどい文書だった。
虫食いと水染みで、このままなら読めない。
でも私には前世の技術がある。
染みのパターンから元の文字を推定する。
虫食いの位置から欠損文字を復元する。
修復士にしかできない読み方だった。
最終巻は三日もかけて修復していた。
その時もずっとニクラスがご飯やお茶を用意してくれていた。
そこに書かれていたのは、血統に依存しない結界の維持方法だった。
ご先祖様たちが「いつかカルシュタインの者が道具にされる日が来るかもしれない」と考えて、代替手段を記録していたようだった。
「……ご先祖様、ここまで用意してくれていたんですね」
何百年も前の人が、子孫が利用されることを心配して、逃げ道を用意していた。
その想いですこし泣きそうになった。
涙目で解読を進める私に、老師が黙ってハンカチを差し出してくれた。
その日は朝まで解読を続けた。
王都から使者が来たのは翌日の昼頃だった。
ニクラスが私の部屋に駆け込んできた。
この人がこんなに走るのは初めて見た。
「王都から二人、騎士が来ています。正式な使者のようです、貴方を出せと……」
「……わかりました。会います」
老師が膠の鍋を火から下ろした。
「わしも同席するよ。老人の目があった方が、相手も無茶はできんだろう」
「……ありがとうございます」
深呼吸をした。
手がもう震えている。まだ何も始まっていないのに。
でもいい。震えていても声が出れば、それで十分だ。
屋敷の前に騎士が二人立っていた。王家の紋章入りの胸甲。
馬は辺境の砂埃で汚れていた。
王都からここまで、急いで来たのだろう。
年配の騎士と、若い騎士。年配の方は背筋がまっすぐで、目に疲労がある。
きっと、長年王家に仕えてきた人間なのだろう。
若い方は緊張している。
たぶん、こういう任務は初めてなのだろうか。
年配の騎士が口を開いた。
「ノエル・カルシュタイン様。
ジークヴァルト殿下より、帰還の要請をお伝えに参りました」
帰還の要請。今すぐ帰って来い、を柔らかく言い換えただけ。
「ええ、その理由を伺っても良いですか?」
年配の騎士が一瞬、言葉を探すように間を置いた。
「……殿下がおっしゃるには、国防上の必要により、とだけです」
国防上の必要。
つまり「結界が弱まってるから戻れ」。
私の名前も、断罪しようとしていたことも一言もない。
「ごめんなさい」もない。ただ「必要だから戻れ」と。
前世の上司を思い出した。
修復の成果を横取りした翌週に「次の案件もよろしく」と言ってきた、あのぶっ叩いてやろうかと思うような顔。
もちろんあのときも謝罪はなかった。
「殿下は、私を断罪するおつもりだったはずですが。追放された悪人に帰還を要請するのは矛盾していませんか?」
若い方の騎士がわずかに目を逸らした。
年配の方が答えた。
「……殿下は、あの件は撤回すると仰せです」
「撤回……ですか。
便利な言葉ですね。罪を着せようとしていたのに、必要になったら撤回して呼び戻す…」
騎士たちは気まずそうに黙っていた。
辺境の風が吹いて、屋敷の看板が軋んだ。
背筋を伸ばした。六年間、公爵令嬢として育った姿勢が出る。
「殿下にこうお伝えください。もうそちらには帰りません」
「し、しかし、結界が…国民の安全があるのですよ!」
若い騎士が半歩前に出た。
「結界のことは承知しています。なぜ弱まっているのかも、理由も知っています。でも、もう私は道具として戻る気はありません」
若い騎士の顔に動揺が走る。
国民の安全を持ち出せば折れると思ったのだろう。
年配の騎士の方は表情を変えなかった。
この人は、何が起きているのか、既にわかっているのかもしれない。
「王家はずっと知っていたんです。結界を維持しているのが王家の血ではなく、カルシュタイン家の血だということを、王家自身の記録に」
若い騎士が息を呑んだ。
年配の方はやはり、驚く素振りを見せなかった。
顎がわずかに下がっただけ。
知っていたのだ。
あるいは、長年の勤めの中で感づいていたのか……
傍で黙って聞いていたオルドー老師が私の一歩前に出た。
「わしは元宮廷装丁師のオルドーだ。
四十年、王家の書庫に仕えた。カルシュタイン家に関する記録だけが不自然に消されていたのを、わしは知っている。
このお嬢さんが言っていることの証人にはなれる」
年配の騎士の目が老師に向いた。
何かを思い出すような表情……もしかしたら老師のことを知っていたのかもしれない。
「ただし、結界を放置するつもりもありません」
私は懐から写しを取り出した。それはご先祖様が残した代替方法。
「血統に頼らなくても結界を維持する方法が、始祖の時代から記録されていました。
これを殿下にお渡しください。王家はこれを使って、自分たちの力で国を守ってください」
年配の騎士が文書を受け取る。
手が少しだけ震えていた。
……この人も、何かを飲み込んで仕事をしてきたのだろう。
「そして……もし今後、カルシュタイン家と協力関係を築きたいのであれば。道具としてではなく、対等な立場で。それが条件です」
年配の騎士はそれ以上の追求はしてこなかった。
深く頭を下げ、帰っていった。
若い騎士は何か私に言いたげだったが、遅れて頭を下げ、年配の騎士を追うように帰っていった。
去り際、年配の騎士が振り返った。
「……お元気で」
任務にはない一言だっただろう。
それだけで、この人がどういう人間かがわかった。
二人の背中を見送りながら、深呼吸をした。
緊張と恐怖で手はまだ震えていた。
声は震えていなかったと思うけれど、正直よくわからない。
でもいい。言いたいことは全部言った。
今まで一度も言えなかったことを。
「……見事だった」
振り返るとニクラスが立っていた。
「聞いてたんですか」
「まあ……声が大きかったので。ここには何もないから、声が良く通るのですよ」
「……すみません」
「謝ることではないでしょう」
「……震えてましたか。私」
「少し」
「……やっぱり」
「でもはっきりと話していましたよ、心強かったです」
それだけ言って、ニクラスは屋敷の裏に戻っていった。
……少しだけ、泣きそうになった。
怒りでも悲しみでもなくて、たぶん、安堵だ。
言えた。今までずっと飲み込んでいた言葉を、今度は全部、声にできた。
その夜、工房で三人でお茶を飲んだ。
三人分の湯呑みが並んでいる。
ここで作業するうちにいつの間にか、ニクラスの分も用意されるようになっていた。
「お嬢さん。王都に未練はないのか」
「ありません……いえ、少しだけ。良くしてくれていた使用人たちのことが気になります」
「手紙でも書いてやればいい。それか、迎えに行ってもいい。ここにはたくさん部屋が余っているからな」
「……それも、いいかもしれませんね」
お茶を一口飲んだ。
ここのお茶はいつも薄い。でも不思議と落ち着く味だった。
「…オルドー老師」
「なんだ」
「禁書庫にはまだ読んでいない文書がたくさんあります。棚の奥には、あのご先祖様たちの物より前のものもありました」
「ああ、百年分……いや、それ以上の知識が眠っているだろう」
「そのすべてを…私に読ませてもらえませんか?逃げてきたからじゃなくて、ここで…修復士として」
老師が湯呑みを置いた。
「最初から、そのつもりでお嬢さんを待っていたんだよ」
「……百年間も、ですか」
「しつこいのが取り柄でね」
笑った。老師も笑った。
窓の向こうに辺境の夜空が広がっている。
星が、王都の何倍も見えた。
前世では、修復した文書を誰が読むのかも知らなかった
「あなたの仕事は修復まで。その先は関係ない」と言われたことがある。
でもここでは違う。私が読めなければ誰にも読めない文字がある。
私が修復しなければ永遠に失われる記録がある。
そして隣に、百年間それを待っていた人がいる。
「ノエル様」
ニクラスの声が戸口から聞こえた。勝手に入ってくるわけではない。
この人はいつも私を尊重してくれて、勝手に踏み込んだりしない。
「明日の朝、禁書庫に行かれますか?山道を少し整えておきましたが、もう少し手を入れた方がいい箇所がありますので、そこだけお話に来ました」
「……ありがとうございます。毎日のことなのに」
「毎日のことだから、です」
「……ニクラスさん」
「はい」
「ずっと……ここにいてもいいですか?」
大きな意味を込めたつもりはなかった。
でも言った後に意味に気付いて、顔が少し熱くなってしまった。
ニクラスが一瞬だけ目を逸らして、答えた。
「ええ、好きなだけいてください」
短い。でも十分だった。
老師が何か言いたそうな顔をしていたが、黙ってお茶を飲んでいた。
王太子殿下から手紙が届いたのは、さらに一週間後のことだった。
封蝋には王家の紋章がある。
丁寧な字で、代替方法が有効だったこと、結界が安定し始めたこと、聖女が「誤解だった」と証言したことが書かれていた。
そして……「すべてを水に流して、戻ってきてほしい」と。
断罪しようとしたことも、道具として使っていたことも。
何百年もの王家の嘘も。全部「水に流す」……と。
前世の上司も同じことを言っていたような気がする。
「過去のことは水に流そう」って。
その次の週にまた成果を横取りされたけど。
読んで、手紙を閉じた。
その手紙の返事は書かなかった。
書かないことが、今の私の答えだと、伝わってほしかったから。
その手紙を引き出しの奥の方にしまって、工房に向かった。
窓の外ではニクラスが禁書庫までの道を黙々と整備している。
オルドー老師が膠を溶かす匂いがする。
古い文書の頁が、私の指の下で息を吹き返していく。
前世では無名の修復士だった。
誰にも名前を覚えてもらえなかった。
この世界ではただ普通に生きていたのに、悪役令嬢という名前を貼られた。
誰にも私の言葉は聞いてもらえなかった。
でもここでは、ただの修復士。
百年間眠っていた文字を読み、朽ちかけた記録を蘇らせる、ただの修復士。
「ノエル嬢、次の文書だが。棚の奥に建国以前の記録らしきものがあるぞ」
「……建国以前の物ですか」
「興味はあるか?これはなかなか手ごわい修復になるぞ」
「あります。……ものすごく」
老師が嬉しそうに笑った。
断罪なんて、もうどうでもいい。
王都のことも、殿下のことも。
私は今日も、この辺境の工房で古い文書を修復する。
誰に命じられたわけでもなく、誰に評価されるためでもなく。
ただ読みたいから。知りたいから。
そしてここには、それを一緒に喜んでくれる人がいるから。
膠の匂いと、古い紙の匂い。埃だらけの禁書庫。
ニクラスが作ってくれる、素朴だけれど愛のこもった料理。
窓の外に広がる、何もない辺境の景色。
これが、私の居場所だ。
【完】




