第十一話 実は超ポンコツだった弟子
アトラスの「空間認識の歪曲」魔術によって、私たちは森の中の追手の目から完全に姿を消した。彼の魔術の精度は桁違いで、シエナの探知魔術さえ、私たちをただの「森の木々」と誤認させているようだった。
「これは、本当に助かりました。アトラス様。貴方ほどの魔術師が、私たちの逃亡を支援してくださるなんて」
私は素直に感謝を述べた。最強の援軍を得たことで、アウルムまでの道筋は確保されたと言える。
「いえ、リリ殿下。師の命ですから。それに、ボクは師ほど万能ではありません」
アトラスは謙遜したが、その魔力と知性は疑いようがない。私たちはアトラスの作った歪曲空間の中を、安全に南へと進み始めた。
その日の夜。森の中で野営の準備をすることになった。
「アトラス様は疲れているでしょう。警備は私が」エリオット王子が申し出る。
「警備はボクが担当します。空間魔術を維持しながらでも、周囲の警戒は可能です」アトラスは冷静に答えた。
私たちは夕食の準備に取り掛かった。私は空間収納から野営道具を取り出し、エリオット王子が火を起こす。そして、魔道具技師見習いのアイリスは、警戒しながらも、私の手際を興味深そうに見ていた。
「アトラス様も、何か手伝いは?」私が尋ねると、彼は快く頷いた。
「では、薪をくべましょう。火力を安定させるのは、魔術師の基本ですから」
そう言ってアトラスが手に取ったのは、近くに落ちていた乾燥しきった枯れ枝だった。私は内心で感心した。やはり賢者の弟子、知識が豊富だ。
しかし、彼はその枯れ枝をそのまま火の中に放り込むのではなく、自分のローブのポケットに手を突っ込んだ。
「薪の温度と湿度は、魔力で均一化しなければ。理論的には、炎の効率が...」
彼は真剣な顔でブツブツと呟きながら、ポケットから取り出したのは、高級な香油が染み込んだ布製のハンカチだった。彼はそのハンカチで枯れ枝を丁寧に拭き始めたのだ。
「あの、アトラス様。それは?」
「あ、これですか?薪を拭くことで、表面の微生物や微細な水分を取り除き、理想的な燃焼効率を確保するための『薪清掃用ハンカチ』です」
エリオット王子は、薪の清掃など聞いたこともないと、目を丸くしている。そして、そのハンカチが、どう見ても彼が普段、顔を拭くのに使っているものだと、私は鑑定で確認した。
その結果、どうなったかというと。
薪は、彼の過度な清掃と、余計な魔力操作のせいで逆に火を弾き、夕食の焚き火は、アトラスのハンカチの香油の匂いだけを撒き散らしながら、不完全に燃え尽きた。
「おかしいですね。理論値では、この薪は燃焼効率九十八パーセントを叩き出すはずなのですが...」アトラスは真剣に首を傾げている。
その後の彼の行動も、全てが「ポンコツ」だった。
夕食の魚を焼く際、彼は「最適な塩分濃度」を計算した結果、魚を海水濃度十倍の塩水に浸してしまい、食べられない塊にしてしまった。
野営の際、私が指示した場所ではなく、「理論的に最適な夜露を避けられる場所」を選んでテントを張り直した結果、そこは大量の毒を持つ虫の巣の真上だった。
「どうやら、アトラス様は、空間魔術や戦略の立案は天才的ですが、生活能力と、常識的な実践能力が、著しく欠如しているようですね」
私は、彼のステータスに新たに表示された【生活能力(皆無)】という情報を見て、ため息をついた。
「師は、ボクに『生活の知恵は、現地調達せよ』とおっしゃいました。理論を実践するのは、こんなに難しいとは...」
最強賢者の弟子アトラスは、最強の戦術と魔術を持つが、そのせいで現実の生活からは完全に遊離した、超ポンコツだったのだ。
「エリオット王子。彼の監視は、貴方に任せます。特に、食べ物と、寝床に関しては」
「承知した、リリ。最強の助っ人だが、最強の足手まといになりそうだな」
私たちは互いに顔を見合わせ、苦笑した。最強の支援者は、新たな種類の「問題児」として、私たちの逃避行に加わったのだった。
フフフフ。ボクです!シリウスです!
どうですか、このギャップ!最強の空間魔術師が、魚を海水漬けにするなんて、最高に面白いでしょう?
ボクの弟子アトラスは、理論と魔術に関しては本当に天才なんですよ。しかし、彼は幼い頃から研究室にこもりきりで、現実世界での「常識」や「生活の知恵」というものが、完全に抜け落ちています。ボクが彼を「現地調達せよ」と送り込んだのは、彼のこの致命的な欠点を克服させるためでもあります。
リリちゃんにとっては、アトラスは強力な「盾」であると同時に、手のかかる「弟」のような存在になってしまいましたね。彼の【生活能力(皆無)】ステータスは、今後の逃避行で間違いなく様々なトラブルを引き起こすでしょう。
ですが、このポンコツっぷりこそが、リリちゃんとエリオット王子の絆を深め、アイリスの心を解きほぐす、最高の潤滑油になるはずです。
次回は、アトラスのポンコツぶりで引き起こされるハプニングと、交易都市アウルムへの接近を描くことになるでしょう。彼らの逃避行、ますます目が離せませんね!
また次の後書きで!




