言葉を失った人 - 完
これら三つの出来事が同じ日に集中して起きたことは、決して偶然ではない。
1. 新しい遺言書の破棄 これは、本来の白重衫亡き後の遺産相続の配分が、白紙に戻されることを意味する。
2. 相続人の変更:白宗士から白啓錚へ 順雨にとっては、潮水エンターテインメントのA株が、白啓錚の名義に移ったことを意味していた。
3. 相続放棄に関する書類 主に法律で保障された子供の「遺留分」を対象としたものだ。 本来、法律は子供が遺産の中から一定の資産を得る権利を保障している。白重衫の総資産規模からすれば、それは莫大な金額になるはずだった。 だが今、突如として現れた相続放棄の書類は、誰かが順雨の権利を根こそぎ奪おうとしている不穏な予兆だった。
しかし、相続放棄が効力を持つには、大きな前提条件がある。
それは「白重衫の死亡確定」だ。今回の手紙の中に、彼の訃報は入っていなかった。
ならば、まずいくつかの問題を明確にしなければならない。
一体誰が代理人を騙り、私の代わりに相続放棄に署名したのか? もし父が健在であれば、相続放棄は効力を持たない。
となれば、この書類は偽造なのか、それとも誰かが父の死を隠蔽しているのか――。
事の全容を把握するため、順雨はまず白宗士に電話を入れた。
相手は現在国外におり、しかも一人ではないようだった。
電話の向こうから白重衫の声が聞こえ、順雨は慌てて父と話したいと求めた。
白宗士が電話を代わると、受話器越しに父の声が響いた。
大海原を漂うような謎の中で、宙吊りだった心がようやく一箇所の着地点を見つけた。
順雨は目尻を拭い、聞き慣れたあの声をまだ聞けることに、少なからず安堵を覚えた。
続けて、彼は急いで書類と遺言書修正の件を伝えた。
白重衫は聞き終えると理解を示し、帰国するまでの間、現在の事務を執事長に任せて状況を整理させることに決めた。
詐欺に遭ったか、あるいは偽造の類である可能性がある。
そして、誰かが順雨の代理人を自称し相続放棄を行った件については、順雨自身が地方裁判所へ足を運び、確認する必要があった。
この朝食を食べ終えたら出発しよう
「お姉ちゃん!早く食べて、早く食べてよ!」
「あなたのほうこそゆっくり食べなさい。そんなに急いで食べたら喉に詰まらせるわよ。それに、お姉ちゃんが食べ終わるのを待たないと一緒に遊べないでしょ」
事件の翌朝。
順雨の一家三人とフェロムは食堂にいた。
テーブルにはフェロムが心を込めて用意したチョコとカスタードのトースト、そして蒸し上げたばかりの熱々でホクホクとした菱が並んでいる。
これらはすべて、白明奈のリクエストで作られたものだ。
『魅惑のうさちゃん』。
それは二頭身のウサギの姿をした擬人化キャラクターで、日常を描いた短編漫画から人気に火がつき、今やスタンプやグッズ、ガチャなどを経て大衆の目に留まる存在となっていた。
キャラクターはしばしば特定のイメージで展開されるが、その中に「エレガント・ジェントルマン」と呼ばれるシリーズがあった。
シルクハットにスーツ、そして何より特徴的なのが、あの唐突な八字髭だった。
昨年、明奈と彤生が永安市へ帰省した際。
ガラスケースに収められたコレクションの中から、明奈はそれを見つけ出した。彼女は一目でそのコミカルな髭を気に入った。
スーツを着ていたのも理由かもしれない。
それはかつて、思祈が最も好んで着ていた服装だったからだ。 それが転じて、八字髭に似た形をした「菱の実」への愛着に繋がった。
きっかけは、少し前に正月用品の市場を歩いた経験だった。
初めて菱に出会った彼女は、まるで夢にまで見た初恋の相手に会ったかのように喜び、家に持ち帰ると騒ぎ立てた。
幸いにも菱の味は、偏食気味な彼女の口に合ったようだ。
今の明奈は、食材の味を堪能するどころではなかった。
彼女が期待しているのは、朝食後の遊びの時間だ。
フェロムや清掃員の叔父さんとリビングでおままごとをすること、それだけが頭にある。
「食べ終わったよん!」
「飲み込んでから話しなさい」
「ん……んぐっ!? うっ! ううっ!!」
明奈の顔色が急変した。
口いっぱいに詰め込んだ食べ物が喉に詰まり、一瞬息ができなくなったのだ。
「明奈が喉を詰まらせた!」 順雨が慌てて叫び、彤生と同時に立ち上がった。
「えっ!? 水、水はどこ? ああっ!」
隣に座っていたフェロムは、テーブルの上を手探りで焦りながらコップを探したが、裏目に出てそれを倒してしまった。
「ごめんなさい!」
ガラスの触れ合う音と液体がこぼれる音。
生まれつき目の見えないフェロムは、今の感触がどのような事態を招いたかを即座に理解した。
結局、明奈はなりふり構わずテーブルに突っ伏し、こぼれた水を直接すすり込んだ。
これでようやく今回の危機を脱した。
向かい側から駆け寄る途中だった順雨と彤生は同時に安堵のため息をつき、散らかったテーブルの後始末を始めた。
「明奈……大丈夫か?」
「ふぅ……助かったぁ……テーブルの水を吸い取ったよ。こうやって伏せて、ズズーッて」
明奈自身でさえ、自分のとっさの反応がおかしく感じるほどだった。
「伏せて……吸う? こう? うわっ、痛たたた」
ごんっ、と実に小気味よい音が響いた。
いい頭だ。
フェロムは明奈の動きを分析し、無意識に体を真似てみた結果、力加減ができずに頭を下げた拍子にテーブルに思い切りぶつけてしまったのだ。
[詰まって苦しかった……もう少しで天国に飛んで、小天使になるところだったよ。]
「だから食べている時は喋っちゃダメって言ったでしょ。どうしてそんなに急ぐの。あなたの両親は二人とも、あなたほど落ち着きがなくてせっかちじゃないわよ。一体誰に似たのかしら?」
彤生はそれを聞いて激しく数回むせ、慌てて水を飲んで落ち着かせた。 フェロムが心配そうに声をかけたが、彤生は苦笑いしながら手を振って「大丈夫」と伝えた。
フェロムが食べ終わると、食器の片付けも待たずに、明奈は待ちきれない様子で彼女の手を引いて食堂を出ようとした。
フェロムになだめられ、ようやく飛び跳ねながら片付けを待ち、それから彼女を連れて入り口の方へ向かった。
「パパ! 明奈、先に行くね!」
去り際、彼女は両親に別れを告げるのを忘れなかった。
と言っても、リビングに行くだけなのだが。
「うん! お姫様、お気をつけて」 順雨は、以前娘とごっこ遊びをした際の「執事役」に一瞬で入り込み、幸せいっぱいの笑顔で手を振った。
「……本当に甘やかしすぎよ」 彤生は呆れたように言い、目を細めた。
「そうだ!」 明奈の姿が不意に扉の陰から現れた。
彼女は小走りで彤生の隣へ来ると、ゆっくりと膨らんだお腹の上に横たわり、その膨らみを優しく撫でた。
「妹ちゃん、バイバイ〜」 二人は明奈の細やかな仕草に、思わず微笑み合った。
明奈が去った後、彤生はしみじみと感慨にふけった。
「妊娠したばかりの頃からずっと、『妹、妹』って呼んでいたけれど、本当に明奈の願いが叶うなんて。この意志の強さは誰にも負けないわね」
「本当に。誰に似たんだろうね」
順雨は独り言のように呟いたが、それはまるで彤生に「魂の問いかけ」をするかのような、からかいを含んでいた。
多くを語る必要のない阿吽の呼吸。
食べ物を喉に詰まらせた今の騒動に触れ、二人はお互いに「初対面の時の記憶」を連想していることを確信した。
「いたずら好きなところは、きっと人をからかうのが大好きなパパに似たのね」 彤生は、自分のことを棚に上げて先制攻撃を仕掛けた。
「それ、僕のことじゃないか」——順雨の苦笑いから、彤生はそう読み取った。
その後、彼は笑顔を収め、心の中で何かを推し量るようにしてから、最後にこう切り出した。
「後で地方裁判所へ行ってくる。相続放棄の書類が事実かどうか確認するためにね」
「ええ。そういえば、あなたに無断で契約書にサインした代理人って……誰なの? 書類に書いてあった? 心当たりは?」
「わからない。書類に代理人の情報は記載されていなかったんだ。どうせ行くんだから、現場で確認してみるよ。その後……ついでに思祈と少し話してくる」
「……じゃあ、私も一緒に行くわ」
彤生の言葉を聞き、順雨は躊躇した。
その提案にはあまり賛成できなかった。
裁判所や病院は、雰囲気が重い場所だ。
今、第二子を身籠っている彼女は、あらゆる生理的な不調に直面しており、本来は家で休んでいるべきだった。
しかし、彼女が同行したいと言うからには、彼女なりの考えがあるのだろう。おそらく彼女も思祈に会いに行きたいのだ。
床には色とりどりの食材、調味料、まな板、包丁、一回り小さな調理台とフライパンが散乱している。
ただし、これらはすべてレゴブロックで作られたものだ。
今日は、「明奈シェフ」が「フェロム助手」を率いて、『五つ星シェフの壁』の異名を持つグルメ評論家――清掃員の叔父さんのために料理を作る。
「明奈、パパとママはちょっと出かけてくるから、いい子でお留守番していてね」
「はーい」
「フェロムお姉ちゃんの側にちゃんといなさい。また勝手に走り回っちゃダメよ」
「はい、はい」 明奈は上の空で答え、意識のすべてを目の前の遊びに集中させていた。
母親の方へ視線を向けることさえ惜しんでいるようだった。
「本当に聞いているのかしら……もう」
「ははは……彤生、私がちゃんと面倒を見るから。私は子供の相手が一番得意なんだ。安心して」
彤生を安心させるために、フェロムが請け合った。
清掃員の青年も彤生の方へ親指を立て、フェロムに続いて「任せてください」と添えた。
「ありがとう。明奈をよろしくお願いします」
「私は子供じゃないもん、シェフだもん! 明奈シェフって呼んでよ!」
「はいはい、では次は何をすればよろしいでしょうか、明奈シェフ?」
彤生はしばらく明奈とフェロムのやり取りを見守った後、安心して順雨の後に続いて去っていった。
ホールの大扉が閉まると、まるで鐘が鳴り響くような余韻を残した。
扉の閉まる衝撃音は、その軌跡とともに次第に小さくなり、やがて門の前で車のエンジンがかかり、ゆっくりと遠ざかっていった。
明奈はようやく完全にリラックスできた。
しばらくの間は母親の小言を聞くこともなく、遊びに専念できる。
「野菜を切って! 今日は小籠包を作るの! たこ焼きとエッグタルトも!」
「わかりました、シェフ!」
「明奈シェフだよ。シェフにはみんな自分の名前があるんだから」
「わかりました! 明奈シェフ! 野菜を切るのは小籠包の餡のためですよね。でもそれだと餃子になりませんか? 小籠包には野菜はいらないような気が……たこ焼きもいらないし、エッグタルトなんてなおさら……」
「そうだよ! エッグタルトだよ。エッグタルトにカリカリの食感を入れるの!」
「野菜のエッグタルト……」
フェロムの脳裏に一筋の光が走り、後で自分でも試してみようというインスピレーションが浮かんだ。
「……はい! 明奈シェフ!」
おままごとが始まって間もなく、ホールのあたりから再び物音がした。
「明奈!?」
「ママ?」
明奈は首を傾げ、小さな声で呟いた。
まだ彤生の姿は見えないが、遠くから彼女の切羽詰まった呼び声が聞こえてくる。
続いて「ドン!」という音を立てて、扉が自動で閉まった。
ドアクローザーの補助があったため、去る時ほどの響きはなかったが。
彤生が扉を閉める動作すらおろそかにするほど急いでいる理由は何だろうか。
すぐに、彤生が小走りでリビングに現れた。
彼女の目は潤んでおり、来るなり明奈を強く抱きしめた。
明奈は何が起きたのかわからず、急に抱きしめられた拍子に、まるで喋るぬいぐるみのように胸が圧迫されて「ふぇっ」と空気が漏れる音を出した。
「ママ……どうしたの?」
「お母さんの声……彤生? 何か忘れ物?」
「大丈夫……大丈夫よ……」
彤生はこの言葉を絞り出すのが精一杯で、長い間沈黙していた。
激しく揺れ動く感情を整理しているようだった。
明奈は、背中に伝わってくる締め付けの強さから、彤生の感情の高ぶりをわずかに察することしかできなかった。
抱擁が解かれた時、二人はようやくお互いの顔を見合わせた。
彤生のその、まるで別世界から戻ってきたかのような表情は、危うい崖っぷちから明奈を引き上げた後の、九死に一生を得たかのような安堵に満ちていた。
その表情は、明奈の記憶に深く刻み込まれた。
「ママ?」
「彤生?」
「明奈、行くわよ。ここを離れなきゃ。フェロム、それに清掃員の方……明奈の面倒を見てくれてありがとう」
彤生は再び立ち上がり、明奈の手をぐいと引いた。
しかし、体が動こうとした瞬間、手の中の感覚が滑り落ちた。
彤生は自分がうまく繋げていなかったのだと思い、もう一度握ろうとしたが、やはり空振りに終わった。明奈が、繋ごうとするたびに無意識に手を引っ込めていたのだ。
明奈はその場に留まったまま動かなかった。
「今、ゲーム始めたばかりなのに……清掃員の叔父さんも……せっかく時間を空けてくれたのに」
明奈は手をわずかに背後に隠した。その様子は弱さを見せて同情を買おうとしているようでもあり、あるいは彤生に簡単に連れて行かれまいとする、彼女なりの抵抗のようでもあった。
「え……来なさい! 時間がないの」
「どこに行くの……」
明奈の弱々しい嗚咽混じりの声は、彼女の最後の意地だった。
「何時に帰ってくるの?」
その言葉を聞き、彤生の、明奈を掴もうとしていた手が緩んだ。
明奈は少し不安そうな表情を見せた。
厳しく叱責されるのではないかと感じたのだ。
しかし、彤生はただ考えていた。 明奈は活発な子だ。
自分の意見を伝えようとしたことがなかったわけではない。だが、はっきりと行動に移したのは、これが初めてだった。
もし自分の父親なら、間違いなく今の行為を怒鳴りつけただろう。
母親は父親に従い、彼女を躾けさせただろう。
教育方針に絶対的な正解はないし、個性に合わせた教育をすべきだ。
だが、子供の頃のさまざまな出来事を思い返し、悔しさと妥協が入り混じった走馬灯が駆け巡る時、どうしてもこう思わずにはいられないことがある……。
――もう少し静かに、もっと対話を重ねていれば、喧嘩にならずに済んだのではないか。
彤生はしゃがみ込み、片手を明奈の肩に置いて、彼女と向き合った。
「明奈……家で少し大変なことが起きたの。せっかく約束した遊びの時間を邪魔してしまってごめんなさい。お母さんを……私を信じて。私もあなたの遊びを中断させたくはないの。でも本当に時間がなくて。詳しいことは車の中で話してもいいかしら?」
「明奈、今回はお母さんの言うことを聞きなさい。遊びの時間はまた次に約束できるわ!」 フェロムも同調した。 「うん、また次があるさ」 清掃員の青年も珍しく口を開いた。
「うん……」 明奈は不満そうな表情を浮かべつつも、自分から彤生の手を握った。
この時、ホールから順雨の声が聞こえ、二人の名前を呼んだ。
間もなく順雨がリビングにやってきたが、明奈と清掃員がより注目したのは、彼の肩に乗っている小さな人影だった。
小さな女の子だ。
彼女は明奈よりも年下で、鏡のように透き通った碧眼を持ち、短い緑色の髪をしていた。茶色のカジュアルな服を身に纏い、順雨の肩越しにこちらを眺めていた。
明奈は少し憤慨した。
自分もパパに肩車してほしいと要求しようとした矢先、順雨はその女の子を先に下ろした。
「フェロム、まだいたんだね。それに君も……」
順雨がどう切り出すべきか迷っていると、劉煥宏もリビングの入り口から歩いてきた。
「監視室の記録は削除し、電源も落としました」
「ああ、わかった。ありがとう」
順雨はまず劉煥宏に応じ、それから他の面々に向き直った。
「みんな、これまでの心遣いに感謝する」
「何をおっしゃいますか、順雨さん。水臭いですよ」
「クンクン……この小さな女の子はどなたです? 彤生夫人の匂いがしますね」
「親戚の子供だ……それより、僕たちは旅行に行くことにした。いつものようにね……」 「わあ、素敵! 家族旅行ですね。お弁当の準備をしましょうか?」 フェロムが提案した。
順雨は一瞬躊躇した。
本当はお願いしたかった。
なぜならそれは彼が三年間も口にしていない手料理であり、夢にまで見た懐かしい味だったからだ。
だが、一分一秒を争う状況を天秤にかけ、彼は最後にはその提案を断った。
「いいんだフェロム、気持ちだけ受け取っておくよ。でも時間が差し迫っているんだ。君たちの他にも、レイラや李叔さんにもまだ言えていない。他の人たちにも伝えておいてくれないか……僕たちは……旅行に行くんだ、と……」
順雨はうつむき、消え入りそうな声で、最も重い感情を口にした。 「……すまない」
その「すまない」という言葉は、彼の人生のほとんどが詰まった家、思い出の大半が詰まった場所へ残す、最後の独白だった。
別れを告げぬことへの引き止めであり、未練への懺悔でもあった。
言いたいことは山ほどあるが、言えないことも多すぎた。彼はただ、沈黙を守るしかない「語れぬ者」となった。
順雨と彤生はそれぞれ子供の手を引き、その場を後にした。
邸宅の人々は、彼らが去る際に楽しい旅を祈る言葉をかけたが、明奈にはわかっていた。
両親の気持ちがひどく沈んでいることに。
そして邸宅の誰も、これがこの場所で順雨一家を見る最後になるとは思ってもみなかった。
明奈もこの時気づいた。
おそらくパパとママはあの時すでに、一生口にすることのない秘密を抱えていたのだろう。 そしてその緑の髪の女の子の名は、白筱謙。
明奈の三歳になる妹であり、生まれつき言葉を紡ぐことのできない、先天性の失語者であった。




