リンゴと矢(1906年)
一
1906年、サンクトペテルブルク郊外・パヴロフスク演習場。
芝を切り上げた土手(弾止め)の前に、木枠標的が等間隔に立つ。*風向帯(ветровые ленты)*が25mと50mの杭で小さく踊り、赤白の信号板には〈СТРЕЛЬБА! — ПРОХОД ЗАКРЫТ(射撃中・通行禁止)〉。観測壕の屋根にはニッケルのストップウォッチと銀笛が置かれている。
イリヤ・ヴォルコンスキー(23)は、濃緑の詰襟チュニックに臙脂のパイピング、真鍮ボタンを並べたユンケル(士官候補生)制服。黒漆の庇を持つ制帽は臙脂の帯、肩には校章モノグラム入り肩章。革帯に手袋、右手は弓指のため薄い革当てを巻く。
「見事だ、ヴォルコンスキー候補生殿」
教官のグラズノフ大佐が風を測る。肩章は幅広の金線、縁は黒。
「五十メートル、十射十中。——だが技術だけでは不足だ」
「Мужество(度胸)ですね、閣下」
「そうだ。試す」
大佐が視線で合図する。「助手」
サーシャ・ツヴェトコフ(23)が駆ける。作業外套の袖はインクで黒く、靴はきちんと磨かれている。
「止まれ。そこだ」
大佐は赤いリンゴを取り出し、指で拭い、サーシャの制帽へそっと据えた。空気が固まる。
「ヴォルコンスキー、射て」
ざわめく候補生。イリヤは弓を握り、短く息を吐く。
「大佐、これは——」
「Тихо(静粛)。訓練だ。了解か」
遠くでサーシャが片手を上げる。
「イリヤ、大丈夫だ。いつも通りに」
二
指の腹で弦を頬へ。視界を狭め、風・距離・わずかな下りを一つに畳む。
果樹園の記憶が返る——投げ上げたリンゴ、初めての命中。
狙点を半拍だけ浮かせ、放つ。
矢が空気を裂く音は短い。
赤がぱんと割れて二つに跳ね、背後の藁に黒い影。
一呼吸の沈黙、次いで「ブラボー!」の奔流。
サーシャは無傷のままリンゴの半身を掲げて笑い、イリヤは弓を下ろす。膝が、少しだけ笑う。
三
「ひとつ問う」大佐が近づく。
「なぜ矢が二本、弓の脇に用意されていた?」
風が止み、見学のユンケルたちが息を呑む。
イリヤは視線を上げ、短く答える。
「一本目は友情のため。二本目は——命令の出どころに」
張り詰めがほどけ、グラズノフは鼻で笑って銀笛を指で転がす。
「よろしい、考える頭もあるらしい。安心しろ」
彼は制帽の内側から薄い弧状の鋼板を示した。
「訓練は訓練、死なせはしない。だが、恐れを飼い慣らせるかは別だ」
「言ってくれれば、鼓動が二拍は減りました」サーシャが肩で笑う。
「次からは先に言おう」と大佐は口角だけで笑い、すぐ「——言わん」と付け足した。
四
その夜、中庭。石張りの冷たさが背に移る。
二人は腰を下ろし、サモワールの茶を分け合う。白い息が夜に薄まる。
サーシャが紙包みを開く。中には乾き始めたリンゴの半身。
「しおりにする。図書室のプーシキン……はやめて、手帖にしよう」
「司書はきっと雷を落とす」
「じゃあ手帖だ。約束の目印にする」
「あのとき、外していたら?」サーシャが問う。
「外さない」
「もしも」
「外さない。外すくらいなら、弓を捨てる」
カップを軽く触れ合わせる。真鍮の薄音が、芝の匂いに紛れて消える。
五(射場掲示・追記)
翌朝、射場の掲示板に小紙が増えた。
【注意:本訓練は安全板を使用。——だが怖がれ。恐れを知らぬ者は、他人を恐れさせる】
署名はない。癖字のチョークで、皆が書き手を知っている。
サーシャは手帖に乾いた赤を挟み、ページの余白へ小さく書く。
——恐れを飼い慣らせるか……。
少なくとも恐れないふりはできた。相手がイリヤでなかったら、果たして……。
彼はふっと息を漏らし、額の汗をぬぐった。
<了>




