オネーギン練習中 (1990年)
「オネーギン練習中」— 1990・モスクワ大学
場所: 雀が丘・モスクワ大学 ДК МГУ(大学会館)小ホール
演出: ガリーナ・イワノヴナ(卒業生・鬼才演出家)
配役(くじ引き):
オネーギン=サーシャ・ツヴェトコフ(19)/レンスキー=イリヤ・ヴォルコンスキー(19)
タチャーナ=アーニャ(文献学部)/オリガ=マーシャ(生物学部)
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1 二重唱(レンスキー&オリガ)稽古
ピアノの半音が冬眠から覚めきらないまま、甘い主題が流れる。
イリヤ=レンスキーとマーシャ=オリガ、見つめ合い——次の瞬間、台本にない動き。
イリヤが彼女の頬に指を添え、マーシャは掌で口元を半分隠す。
角度と手のひらで距離を偽装するсценический поцелуй(舞台キス)。
客席の同級生たちには「本当にキスしている」ようにしか見えない。
「ブラボー!」
口笛、拍手、歓声。舞台袖からサーシャがぴょこんと顔を出し、眉を一段上げる。
「温度、高っ」
「芸術には温度がいるだろ?」とイリヤ。
「摂氏で頼む。開演前に沸騰されると困る」
ガリーナ・イワノヴナが譜面台をコツン。
「Стоп. Дальше — именины.(ストップ。次、名日祝い)」
2 タチャーナの名日(Именины Татьяны)
段ボールのケーキ、紙コップの乾杯。
サーシャ=オネーギン、わずかに過剰な色気でオリガの前へ滑り込む。
「お嬢さん、あなたの瞳は今夜、余計によく光る」
台本にない副詞に、客席からはかすかな嘲笑が漏れる。
イリヤ=レンスキーの耳が赤くなる。
「一曲、僕に——」
サーシャが畳みかけ、マーシャが吹きそうになる。
アーニャ=タチャーナが扇子で小さく突く。
「ねえ、本気でやってる?」
「稽古だよ」
サーシャは涼しい顔。
イリヤの眉間に影。
「挑発か?」
「演出の指示だ」
「じゃ、演出に抗議する」
白手袋が宙を描き、サーシャの胸元へ——手袋投擲。
稽古場の空気が一拍、真空になる。
3 停止
ガリーナ・イワノヴナ、低く短く。
「ストップ! 端折らない! 喧嘩?」
二人、同時に振り向いて、同じ調子で。
「今のは演技だ」
「今のは演技だ」
タチャーナ役&オリガ役、同時に吹き出す。
「そこだけ完璧な二重唱」
「決闘するなら拍子合わせてね」
演出家の片手がひらり。
「Перерыв. 十五分.(休憩、15分)」
4 楽屋
サモワールの湯気、針金で直したマグ。
マーシャがイリヤの腕を小突く。
「さっきの舞台キス、点数高い」
サーシャは砂糖壺の角でスプーンを鳴らす。
「演技の点は出さなくていい。内申に響く」
イリヤは肩をすくめる。
「嫉妬は劇薬だが、用法用量を守れば名場面になる」
アーニャが台本を閉じる。
「次はタチャーナの手紙のシーン」
「温度、上げすぎないで」
と二人同時。
「はい先生」
再び笑い。
廊下から演出家の合図。
「По местам!(持ち場へ!)」
役者はそれぞれ所定位置へ。
近すぎず、離れすぎず。立ち方だけで友情の長さがわかる。
——決闘までは、まだ稽古がある。
本気になるのは、あくまで舞台の中で。
そして終演後はドモーフェイ喫茶店で茶でも。
嫉妬も手袋も、砂糖と一緒に溶かすために。




