公衆電話の列 (1992年)
赤旗が降ろされてから数週間、街はまだ息を整えていない。ノーヴィイ・アルバートの角では、青い“таксофон”に列ができていた。
一
1992年の初冬、ノーヴィイ・アルバートの風は刃物みたいだった。角の薬局の軒下、青い箱のтаксофон(公衆電話)に、濡れたコートの列ができている。
サーシャとイリヤも並んだ。婆さん、配達帰りの青年、買い物袋を抱えた母親、そのあとに二人。並ぶ理由はそれぞれだが、目的は同じ——つながること。
前の青年が受話器を置くと、箱の腹がコトンと鳴った。
「жрёт жетоны(コインを食う)」と誰かがぼやく。
「今日は割と戻す方よ」と婆さん。
イリヤが胸ポケットから紙片を出す。
「市外、繋がるかな」
「運と天気と回線の気まぐれ次第」
サーシャは肩をすくめ、手袋をはずして二コペイカ硬貨を指で回した。
二
母親の番。受話器を肩で支え、指で番号をなぞる。「………занято(話し中)」
再ダイヤル。無音。もう一度。無音。電話は、冬より冷たい。
「病院ですか?」
サーシャが小声で訊く。
「はい。小児科。発熱で…」
イリヤがスケッチ帳を差し出した。
「番号、書きましょう。『Справочная(案内)』の市内番号もあります」
母親は礼を言い、紙にメモする。列の後ろから「次の次、頼むよ」という声。
秩序は薄いが、暗黙の順番は守られる。
婆さんの番が来た。
「Алло?… нет, это не та… もう、違う局番に繋がるのよ」
「十桁の新しいかけ方、慣れませんね」
イリヤが言う。
「私の若いころは交換手が全部繋いでくれたわよ」
婆さんは笑い、茶目っ気たっぷりに言う。
「人が間に入ると、待てたのにね」
三
二人の番。イリヤは市外局番から回す。無音。やがて、かすかな高い音。
「トーンはある」
「行け」
指がダイヤルを回すたび、金属の歯が冬に鳴る。
呼び出し音。
「Алло, папа?……(もしもし、お父さん?)」——二呼吸で、ぷつ、と切れた。
「ほらね、気まぐれだ」
サーシャは苦笑し、コイン返却レバーを軽く叩く。運が良い日は硬貨が戻る。
今日は——一枚だけ、真鍮色がコトリと落ちた。
後ろから青年が顔を出す。
「兄さん、赤ん坊先にいい?」
列は自然に割れ、母親が受話器を取る。
「もしもし、…小児科? Да-да, ребёнку год и три…(1歳3か月で…)」
繫がった。冬空が少しゆるむ。母親の声は短く、必要なことだけ。受話器を戻すと、息を吐いた。
「ありがとうございます」
「運と天気と気まぐれのおかげ」サーシャが言い、イリヤがメモを返す。
「お大事に」
四
入れ替わりに、制服姿の少年が駆け込んできた。頬が赤い。
「先生に電話しなきゃ......завтра зачёт(明日小テスト)って張り紙が落ちてて…」
「番号は?」
「わかんない」
「じゃ、局番だけでも。学校の職員室?」
サーシャは案内の番号を回し、少年に受話器を渡した。
「聞き方はこう。学校の番号を言って、先生の電話番号を教えてもらう」
少年はたどたどしいが、ゆっくり復唱する。しばしの沈黙。
「спасибо(ありがとう)」
紙に番号。もう一度回す。
「もしもし、先生? ごめんなさい…はい、明日は…はい……」
受話器を置くと、少年は深く頭を下げた。
「助かりました」
「次は手袋して走れ」
サーシャ。
「うん!」
五
列がまた縮む。婆さんがサーシャの袖を引いた。
「若いの、これ受け取って」
掌に古い電話コインを二つ。
「わ、いや、それは……」
「あなたの声、良かったからね」
婆さんは目尻で笑い、秘密めかした声で言った。
「声ってのはね、暗い時の灯りよ」
「光栄」
サーシャは礼を言って、コインをポケットにしまった。
イリヤがもう一度、父の職場に回す。二回目の呼び出し音——今度は、繋がった。
短い近況、必要な用件、最後に「元気で」。受話器の向こうの声が、思いのほか柔らかい。
切ったあと、イリヤはしばらく、手をポケットに入れたまま黙っていた。
「繋がると、人は少しだけ戻るね」
「どこへ?」
「見えるところまで」
六
列を離れると、風がまた刃に戻った。
角のカフェで、二人は熱い茶を紙コップで受け取り、窓から青い箱を眺めた。誰かが繋ぎ、誰かが諦め、誰かが順番を譲る。都会の礼儀は、案外、寒さの中で育つのかもしれない。
「ねえ、詩人」サーシャが蒸気越しに言う。「今日の要約」
「電話は冬を通す。声は灯りになる。硬貨は時々戻る」
「最後の一文が現実的でいい」
「財布は詩より薄いからね」
二人は笑って、紙コップを額に当てた。
外では、青い箱に新しい列ができていく。
世界は気まぐれで、でも、人は順番を守る。
十分それで、夜は続く。
順番を守る列を見て、イリヤは思う——「速すぎれば、こぼす」。だが歩調を合わせれば、届く。
(了)




