終わりの始まり 2
四
1991年8月19日。
サーシャが目を覚ますと、異様な空気が街を包んでいた。
ラジオをつけた。
「緊急委員会が国家の統制を掌握しました。ゴルバチョフ大統領は健康上の理由により——」
クーデターだ。
サーシャは飛び起きた。保守派が権力を奪取した。改革が逆戻りする。
電話が鳴った。
「サーシャ、聞いたか?」ドミトリーの興奮した声。「タンクが市内に入ってきている。俺たちはホワイトハウス(ロシア最高会議ビル/クラスノプレスネンスカヤ河岸通り)に集まる。エリツィンが抵抗を呼びかけている」
「今から行く」
「イリヤ・ヴォルコンスキーには気をつけろ」ドミトリーが警告した。「彼の父は保守派だ。このクーデターに関わっているかもしれない」
サーシャは受話器を握りしめた。
「わかった」
だが、イリヤに電話せずにはいられなかった。
呼び出し音。三回、四回——
「もしもし?」イリヤの声。疲れていた。
「イリヤ、大丈夫か?」
「サーシャ…」長い沈黙。「父が——父がこのクーデターに関わっている」
サーシャの心臓が止まった。
「何だって?」
「昨夜、緊急の呼び出しがあった。今朝、父は『新しい秩序が始まる』と言っていた」イリヤの声が震えていた。「サーシャ、僕はどうすればいい?」
「今、どこにいる?」
「家だ。外出を禁じられた。父は、事態が落ち着くまで大学に行くなと」
「イリヤ、聞いてくれ」サーシャが急いで言った。「僕はこれからホワイトハウスに行く。エリツィンを支持する」
「危険だ」
「わかってる。でも——これは歴史的瞬間だ。僕は正しい側にいたい」
「正しい側……」イリヤが呟いた。「それはどちら側だ? 保守派か、改革派か? 父か、友人か?」
「君次第だ」サーシャが言った。「君が選べ、イリヤ。誰も君を責められない」
長い沈黙。
「サーシャ、気をつけろ」イリヤが最後に言った。「必ず生きて帰ってこい」
「約束する」
電話が切れた。
五
ホワイトハウスの周りには、数千人の市民が集まっていた。
戦車が建物を包囲していた。だが、兵士たちは発砲命令を待っているように見えた。
サーシャはバリケードの構築を手伝った。市民たちは手に手をとって、民主主義を守ろうとしていた。
「もし軍が攻撃してきたら」隣にいた老人が言った。「我々は死ぬ。でも、自由のために死ぬなら、それは無駄死にじゃない」
夜が来た。緊張は高まる一方だった。
その時、群衆の中に見覚えのある顔が——
イリヤだった。
サーシャは信じられなかった。イリヤが、バリケードの中に入ってきた。
「イリヤ!」
二人は抱き合った。
「来たのか」サーシャが言った。「でも、君の父は——」
「父は父だ」イリヤが静かに答えた。「僕は僕だ」
「でも、これは——君の家族を裏切ることになる」
「いや」イリヤが首を横に振った。「僕は正しいことをしているだけだ。父が間違っている。だから、僕はここにいる」
サーシャは友人を見つめた。
「イリヤ、君は……」
「サーシャ、君が正しかった」イリヤが遮った。「変革は必要だ。僕は保守的すぎた。失われるものを恐れすぎた。でも、今日理解した——変わらなければ、すべてが失われる」
銃声が遠くで鳴った。誰かが悲鳴を上げた。
「始まったか」
だが、予想に反して、戦車は攻撃してこなかった。
兵士たちが、一人、また一人と、武器を下ろし始めた。
「我々は市民に発砲しない」ある中尉が宣言した。
歓声が上がった。
クーデターは失敗した。
六
三日後。
クーデターの首謀者たちは逮捕された。ゴルバチョフはモスクワに戻った。だが、もう遅かった。
本当の権力は、エリツィンの手にあった。
サーシャとイリヤは、大学の中庭で座っていた。
「父は職を失った」イリヤが静かに言った。「クーデターへの関与で。おそらく、裁判にかけられる」
「すまない」
「謝らないでくれ」イリヤが微笑んだ。「これは父が選んだ道だ。そして、僕が選んだ道だ」
「これから、どうなる?」サーシャが聞いた。
「わからない」イリヤが正直に答えた。「ソ連は終わる。それは確実だ。そして、新しいロシアが始まる。それがどんな国になるのか——」
「希望を持とう」サーシャが言った。「市場経済、民主主義、自由——僕たちが夢見た未来が、ついに実現する」
イリヤは空を見上げた。
「サーシャ、君の楽観主義を羨ましく思う」彼が言った。「でも、一つだけ忘れないでくれ」
「何を?」
「変革には代償がある」イリヤが静かに言った。「失業、インフレ、社会の混乱——これから数年、人々は苦しむだろう。その時、君の経済理論が、どれだけ彼らを救えるか——」
彼はサーシャの目を見た。
「僕は詩人だから、実用的なことは何もできない。でも、苦しむ人々の声を、詩に書くことはできる。それが僕の役割だ」
サーシャは頷いた。
「君は正しい」彼が認めた。「僕は楽観的すぎた。でも——だからこそ、君が必要なんだ。僕が前だけを見る時、君は横を見る。僕が数字を見る時、君は人間を見る」
イリヤが微笑んだ。
「いいチームだな」
「最高のチームだ」
秋の風が、二人の間を吹き抜けた。
1991年。終わりの始まり。
ソ連という巨大な実験は終わった。そして、新しい実験が始まろうとしていた。
それが成功するか失敗するか、誰にもわからなかった。
だが、サーシャとイリヤは、違う視点を持ちながらも、同じ方向を向いていた。
より良い未来へ。
そして、彼らの友情は——出自の違いを超えて、思想の違いを超えて——続いていく。
変わりゆく世界の中で、それだけが変わらないものだった。
(了)




