終わりの始まり 1
一
1991年、春。モスクワ大学(ヴォロビヨーヴィ・ゴーリ=雀が丘)。
サーシャ・ツヴェトコフは経済学部の講義室で、西側の市場経済理論に聞き入っていた。教壇に立っているのはアンドレイ・リヴォフ教授。かつては禁じられていた知識が、今では公然と教えられている。時代が変わった。
「資本主義における自由市場の原理は——」教授が続ける。
サーシャはノートを取りながら、目を輝かせていた。これだ。これこそが、この国を救う鍵だ。七十年続いた計画経済の失敗を、市場の力で正す。
講義が終わると、友人たちが集まってきた。
「サーシャ、今夜の集まりに来るか?」ドミトリーが聞いた。「民主化運動の活動家が来て、今後の戦略について話すらしい」
「行く」サーシャが即答した。「イリヤも誘ってみる」
「イリヤ・ヴォルコンスキー?」ドミトリーが眉をひそめた。「あの詩人気取りの文学部の奴か? 彼は政治に興味ないだろう」
「でも、友人だ」
「友人…」ドミトリーが意味深に笑った。「お前、知ってるのか? ヴォルコンスキーの父親は党中央委員会の高官だぞ。お前とは世界が違う」
「知ってる」サーシャが静かに答えた。「でも、イリヤは父親じゃない」
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文学部の中庭で、イリヤ・ヴォルコンスキーは古い木の下で本を読んでいた。ブロツキーの詩集——かつてはサミズダートでしか読めなかった禁書が、今では普通に手に入る。
「イリヤ」
サーシャが近づいてきた。
「サーシャ! どうした?」イリヤが本を閉じて笑顔を見せた。
「今夜、民主化運動の集まりがある。一緒に来ないか?」
イリヤの笑顔が少し曇った。
「また政治の話か?」
「時代が変わろうとしてるんだ」サーシャが熱く語った。「僕たちの世代が、新しいロシアを作る。市場経済、民主主義、自由——」
「自由」イリヤが言葉を繰り返した。「みんなその言葉を使うが、本当の意味を理解している人は少ない」
「君は理解しているのか?」
「いや」イリヤが正直に答えた。「だからこそ、慎重になるべきだと思ってる。七十年続いたシステムを一夜で変えようとすれば、混乱しか生まれない」
「でも、このままではこの国は沈む」
「それもわかってる」イリヤがため息をついた。「サーシャ、僕は君の情熱を尊敬する。でも、経済理論だけではダメなんだ。文化、歴史、人々の心——それらを無視した改革は、ただの破壊だ」
二人は見つめ合った。
「来てくれ」サーシャが言った。「君の視点が必要なんだ。批判的な声も含めて」
イリヤは長い間考えた後、頷いた。
「わかった。行こう」
二
その夜、大学近くの新アルバート通り(ノーヴィイ・アルバート)沿いのアパートに三十人ほどの学生が集まった。
「同志諸君」活動家のマトフェイが立ち上がった。「いや、もう『同志』という言葉は古い。友人たち、と呼ぼう」
笑いが起きた。
「ゴルバチョフのペレストロイカは生ぬるい。我々はもっと急進的な改革を求める。完全な市場経済への移行、共産党の一党支配の終焉、そして真の民主主義だ」
拍手。
「だが、保守派の抵抗は根強い。彼らは権力を手放そうとしない。我々は声を上げ続けねばならない」
サーシャは熱心に聞いていた。イリヤは部屋の隅で、複雑な表情をしていた。
議論が白熱した。
「計画経済は完全に失敗した」誰かが叫んだ。「食料品店は空っぽだ。人々は何時間も列に並ぶ。資本主義に移行すれば、すべてが解決する」
「本当にそうか?」
イリヤが口を開いた。全員が振り向いた。
「資本主義は万能薬じゃない」イリヤが続けた。「西側を見てみろ。格差、失業、社会の分断——完璧なシステムなどない」
「じゃあ、お前はソ連のままでいいと言うのか?」ドミトリーが挑戦的に聞いた。
「そうは言っていない」イリヤが冷静に答えた。「改革は必要だ。でも、性急な変革は危険だ。社会を根底から覆せば、混乱と暴力を招く」
「それは特権階級の論理だ」ドミトリーが指摘した。「お前の父親は党幹部だ。現状維持が都合がいいんだろう」
空気が凍った。
イリヤの顔が紅潮した。
「僕の父は僕じゃない」
「でも、お前は特権を享受してきた。外貨ショップへのアクセス、海外旅行、質の高い教育——それらはすべて、党のコネのおかげだ」
「やめろ、ドミトリー」サーシャが割って入った。「イリヤの意見を聞こう。出自に関係なく」
「出自に関係なく?」ドミトリーが嘲笑した。「甘いな、サーシャ。この国では、すべてが出自で決まる。それが問題なんだろう?」
イリヤは立ち上がった。
「失礼する」
「イリヤ——」サーシャが引き止めようとしたが、イリヤは部屋を出て行った。
三
サーシャはイリヤを追いかけた。
夜の通りで、イリヤは立ち止まっていた。
「イリヤ、すまない。ドミトリーは——」
「謝らなくていい」イリヤが静かに言った。「彼の言うことは正しい。僕は特権階級だ。父のおかげで、多くの機会を得てきた」
「でも、それは君の責任じゃない」
「わかってる」イリヤが振り返った。「でも、罪悪感はある。君を見てると特に」
「僕を?」
「ああ」イリヤが微笑んだ。「君は自分の力で這い上がってきた。奨学金を得て、アルバイトをしながら勉強して。僕は……すべてが与えられた」
「イリヤ、君は……」
「サーシャ、聞いてくれ」イリヤが遮った。「僕は君の理想を理解できない。市場経済への信仰、急進的な変革への情熱——それらは、僕には遠い世界の話に思える」
「なぜだ?」
「僕が守られて育ったからだ」イリヤが正直に答えた。「君は飢えた人間の気持ちがわかる。列に並んだ経験がある。だから、変革を渇望する。僕には、その切迫感がない」
二人は並んで歩き始めた。
「でも」イリヤが続けた。「だからこそ、僕は違う視点を提供できるかもしれない。君が前だけを見て走る時、僕は横を見る。失われるものを考える」
「失われるもの?」
「文化、伝統、コミュニティの絆」イリヤが説明した。「資本主義は効率的かもしれない。でも、すべてを市場価値で測れば、何かが失われる。詩、芸術、人間性——利益を生まないものたち」
サーシャは黙って聞いていた。
「僕たちは違う」イリヤが言った。「君は経済学者で、僕は詩人。君は未来を見て、僕は過去を振り返る。でも——」
彼はサーシャの肩に手を置いた。
「だからこそ、友人なんだろう?」
サーシャが微笑んだ。
「そうだな」
(2へ続く)




