氷解のヤウザ河岸
「いちばん」を選ぶ話。地名と橋でモスクワの手触り。
199X年3月
氷が割れる音は、古い約束がほどける音に少し似ていた。ヤウザ(Яуза)の水面に白い筋が走り、茶色の流れがその隙間を押し広げていく。川向こうにはエレクトロザヴォーツキー橋(Электрозаводский мост)、鉄骨の紺が濡れていた。
「地下、もう来てる」
サーシャの短い電話に、イリヤは返事より先に軍手とガムテを鞄へ押し込み、プレオブラジェンスカヤ堤防へ駆けた。ボゴローツコエ地区の古い集合住宅。管理人(управдом)の部屋の上には “立入禁止” の赤紙。
「危ないぞ、若いの」
「だから、急ぎます」
二人は合図のように頷き、ブレーカーを落とす。薄闇は水の匂いで満ち、冷たさが頬にかじりついた。階段を降りるたび、段差は浅くなる――水位が上がっている。
扉を開けると、カセットテープが数十本、黒い魚みたいに浮いていた。ラベルの文字は水で膨らみ、角がふやけている。
「優先するもの、決めよう」
「祖父の勲章の箱。それから缶に巻いたテープ――祖母の声」
「全部は無理だ」
「だから、いちばん」
イリヤはロープを梁に回し、即席の滑車。サーシャが箱を括り付け、イリヤが上へ引き上げる。濡れた麻が掌で軋み、繊維が白い線を刻む。
「手、痛い?」
「点数に入らない痛み」
「じゃあ高得点だ」
短い冗談が、冷たい空気の中で小さく灯った。
棚がひとつ、音を立てて崩れた。釘の先が水面に乱反射し、魚の歯のように見える。イリヤは反射的に手を伸ばし、指先を切った。薄い赤が水にほどける。
「待って、消毒」
「あとで。今は……」
「いま、だから」
サーシャはガムテで簡易止血をし、缶を手に取る。水面に映る二人の顔が、波で歪み、すぐ戻った。
「これ、祖母さんが子どもの唱歌を録ったやつ」
「戻るかな」
「たぶん。音は、思い出より強いから」
その時、外の雨脚が強まった。排水口は詰まり、水位は速い。階段の上から、人の声。
「バケツ持ってきたぞ!」
「よし、回せ!」
地下の空気が、少しだけ軽くなった。
隣人の気配は、不思議と水の重さを軽くした。ドアの外では、青年と年配が交互にバケツを受け渡している。
「選ぶの、難しいね」
「でも、選ばないと沈む」
勲章箱、テープ缶、古い写真が数枚。二人は「残す/運ぶ」を数十秒ごとに決めていく。迷いはある。けれど迷いの長さは短くした。
最後の箱を引き上げるころ、堤防の雨は弱まっていた。濡れた軍手を絞ると、掌に残る血の線が驚くほど細く、まっすぐだった。
夜、台所。鍋敷きの上にテープを並べ、扇風機の風を当てる。プレイヤーは咳払いのように軋み、やがて、かすれた女の声が立ち上がった。途切れ途切れでも、歌は歌だ。
「戻ってきた」サーシャが笑う。「音の方から」
「こっちが迎えに行った気もするけどね」
二人はテーブルで勲章の錆を歯ブラシでやさしく磨く。金色が湯の中でぼんやりひかり、祖父の名が薄い刻印で現れた。エレクトロザヴォーツキー橋の向こうで貨物列車が鳴り、窓硝子が低く震える。
「全部を救えなくて、ごめん」
「いいよ。全部じゃなくていい。いちばんは持ってきた」
ヤウザは暗く、しかし流れている。その水の上を渡ってきた声が、今、手の届くところにある。
片付けを終え、テープの上に紙ナプキンをかけ、勲章箱の蓋をそっと閉める。
「守りたいものは、軽く抱えて遠くへ、だね」
「うん。重さは、分け合えば軽くなる」
明け方の気配が台所に差し、湿った音の一日が終わった。
―了―
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地名ミニ注
・ヤウザ川(Яуза):モスクワ東部を流れる支流。春の解氷で増水することが多い。
・プレオブラジェンスカヤ堤防(Преображенская набережная):東岸の堤防通り。
・エレクトロザヴォーツキー橋(Электрозаводский мост):工場地帯を跨ぐ鉄橋。最寄り駅はЭлектрозаводская。




