白いリストバンド(1990年代)
心臓手術前後—「棚を満たす」献血リレーと、約束の一歩。
冬がほどけかけた朝、空の色は薄い紙を一枚かぶせたみたいに淡かった。
経済学部学生サーシャ・ツヴェトコフは講義室の前で胸に手を当て、息を整えた。いつもより鼓動が早い。階段を上がるだけで、肺のどこかに風船の口みたいな詰まりを感じる。文学部学生イリヤ・ヴォルコンスキーはその横顔を見て、眉を少しだけ寄せた。二人は共に19歳、幼児期から友情を育んだ仲である。
「また、息上がってる」
友から目を離さずに、イリヤが言った。
「最近、階段が長くなった気がする……」
と、サーシャ。
「階段のせいにしても、階段は怒らないけどね」
冗談はいつも通り。けれど講義がはじまって二十分もしないうちに、サーシャは席で小さく咳をし、青ざめた。
休憩のベルで廊下に出ると、胸の中心に針のような痛みが走った。イリヤが肩を支える。
「病院、行こう」
「大丈夫」
「その言葉は『行こう』の反意語にはならないよ」
結局、二人はベラルースカヤ駅からほど近い市立臨床病院へ向かった。救急外来の白い灯は、眠くなるほど均一で、しかし不思議と安心を連れてくる。
心電図。胸部レントゲン。聴診器が胸骨の上を移動して、医師の眉がほんの少しだけ動いた。
「生まれつきの弁の形が標準と異なるようです。逆流が強くなっている。しばらく様子を見てきたタイプの方ですか?」
サーシャは黙って頷いた。学校の頃から定期的に検査を受けてきたこと、ここ数か月で息切れが増えたこと。医師は淡々とメモを取り、最後に言った。
「手術での修復、あるいは置換を考えましょう。若いので回復は早いはずです」
言葉は冷静だった。冷静すぎて、かえって現実味がありすぎた。
病室に戻る途中、イリヤは自販機の前で立ち止まった。
「ねえ、必要なことを順番に言って」
「親に電話。入院の手続き。あとは……」
「献血」
サーシャは笑うでもなく、ただイリヤを見た。
「僕の血を直接は流せない。でも、足りない棚に瓶を戻すことはできる。君の棚に、ね」
「ロマンチストだな」
「倉庫管理の話だよ」
その日の夕方、イリヤは寮の掲示板に一枚の紙を貼った。
『友人が心臓手術を受けます。献血センターで『彼のために』と伝えてください。血液型はA Rh+。もちろん誰の血液が誰に行くかは指定できません。でも、棚は満たせる。』
紙の端には日時と最寄りの献血室、必要な条件。イリヤは自分の学生証番号も添え、質問があればいつでも、と書き足した。
「無料交通整理の次は、無料血庫補充か」
メッセージを見た同期のデニスが肩を叩く。イリヤは笑う。
「チップは笑顔で」
検査。説明。書類。手術は一週間後に決まった。
サーシャの手首には白いリストバンド。印字された名前と生年月日が、少し擦れて灰色に見える。
夜、二人は病院の中庭に出た。寒い空気が肺を洗う。
「怖い?」
イリヤの問いかけに、サーシャは少し間をおいて頷いた。
「うん」
「僕は、怖いのが怖いって言える君が好きだよ」
「それは便利な褒め方だな」
「最高得点ではないけど、合格点は出る」
二人の笑いは短く、軽い。けれど十分だった。
献血センターの朝。真新しい紙コップとビスケットの匂い。イリヤは問診票に「最近の体調」「薬」「海外渡航歴」を埋め、採血の小さな痛みに肩をすくめた。
「初めて?」係の女性が訊く。
「二回目です。今日は理由が、はっきりしているので」
血が細い管を通り、透明の袋に赤を溜めていく。
不思議な静けさだった。自分の身体の一部が、目の前で量として現れる。四百ミリリットル。数字は小さいのに、意味は大きい気がした。
隣のベッドにも学生が横になっていた。寮の掲示板を見たと言う。
「友達の手術なんだって?」
「うん」
「俺、直接は知らないけど、棚を満たすのは得意だ」
「頼もしいな」
ビスケットのカスが紙皿に落ちる微かな音まで、今日はちゃんと聞こえる。
手術の前夜、イリヤはサーシャの病室にいた。窓の外では、環状線の金属音が遠くを巡る。
「終電、あと八分」
「ここ、終電ないぞ」
「ほら、緊張すると冗談を言う癖、続いてる」
「その癖がなかったら、僕は今ごろ逃げ出してる」
「じゃあ続けよう」
「ほどほどに」
会話は、二人の体温の代わりになる。
病院。看護師が入ってきて、術前の説明とサイン。
サーシャはペンを持つ手を一瞬止め、深く息を吸って署名した。
イリヤはポケットから小さな紙片を出した。
「見えるところまで行こう」
「合言葉か」
「うん。無理はしない。けど、見えるところまでは必ず」
紙片は、古い目録カードを切ったものだった。図書館の床に散ったカード。二人の出会いと似た、偶然のかけら。
手術の日の朝、病室は静かだった。サーシャは担架に移り、点滴の管が揺れた。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
扉が閉まる。白い灯に吸い込まれて、足音はすぐに消えた。
待合の時間は、妙に伸びたり縮んだりした。イリヤは何度も時計を見、それから見ないことにした。
自販機のコイン投入口に指を添えるたび、金属の冷たさが現実を戻す。
廊下の向こうで、ストレッチャーの車輪がわずかに軋む。看護師たちの歩幅は速くも遅くもなく、訓練された静けさを持っている。
窓の外に細い雪が舞い、すぐ融けた。
――君の棚は満ちた。あとは、技術と時間だ。
そう心の中で呟くと、胸の真ん中のどこかが少し温かくなった。
午後、医師が出てきた。マスクの上の目が穏やかに笑う。
「うまくいきました。若いし、筋肉も強い。回復は早いでしょう」
イリヤは深く息を吐いた。世界に色が戻る感じがした。
集中治療室の面会の許可が出たのは、夕方だった。
ガラスの向こう、サーシャはまだ眠っている。頬に少し赤みが戻り、胸の上下は規則正しい。手首の白いリストバンドが、かすかな光を拾っている。
イリヤは指で、ガラスに小さく文字を書くふりをした。
「見えるところまで、来たよ」
指先の曇りはすぐ消えたが、言葉はどこかに残った気がした。
数日後。最初の歩行。
廊下の端から端まで、点滴スタンドを引きながらゆっくりと。
「立ち上がる時にさ、重力の教科書を全部思い出した」
「じゃあ次は摩擦係数の復習だね」
「足の裏が今、教えてくれている」
笑いながら、二人は三往復した。看護師が親指を立てる。心拍モニターの線は穏やかな山を描く。
窓の外、雪がやみ、薄い太陽が顔を出す。
「退院して最初にしたいこと」
「ヤウザの堤防を歩く。氷が割れる音がまだ残ってる気がする」
「じゃあ、そこまで行こう。見えるところまで」
退院の朝、サーシャは白いリストバンドを外した。プラスチックの輪は机の上で小さく音を立て、止まった。
「記念にする?」
「うん。しおりにしよう。退院証明書は本じゃないけど」
「図書館なら、本になる」
「君はやっぱりロマンチストだ」
「倉庫管理の人、兼ロマンチスト」
二人は病院を出て、環状線に乗った。ベラルースカヤのホームは風がすこし冷たかった。
電車のドアが開く。人が吸い込まれる。二人は同じ車両に乗り、柱に背を預けた。
「ねえ、借りを作ったって思ってる?」
「違う。贈り物を交わしただけ」
「血は貸し借りじゃない、か」
「うん。君がまた誰かに贈れば、世界は在庫切れにならない」
電車が滑る。次の駅名が流れる。金属の音が、なぜだか安心を連れてくる。
ヤウザの堤防は、思ったより静かだった。エレクトロザヴォーツキー橋の鉄骨が薄い光を受けて、長い影を落とす。
当たり前のように並んで歩く。歩幅はすぐに同じになった。
「ほら、川はちゃんと流れてる」
「うん。棚も満ちてる」
「何の?」
「ほら、こういうの。冗談とか、勇気とか」
サーシャは笑い、少し立ち止まった。胸に手を当てる。
「ねえ、ありがとう」
「満額の笑顔で受け取りました」
風が頬を撫でる。遠くで貨物列車が鳴り、橋の下の水がわずかにさざめく。
二人は、見えるところまで歩いた。見えない先があるのは分かっていた。けれど今は、ここまでで十分だった。
帰り道、サーシャは財布から小さなカードを出した。献血証。そこには日付が二つ並んでいる。
「これから、誕生日のたびに行こうか」
「うん。棚は、祝いで満たすのがいい」
角を曲がるたび、二人の影は同じ方向へ伸びていく。
一歩右へ寄るだけで、世界は助かることがある。
そして、一滴分の勇気が、友だちをここまで連れてくることもある。
— 了 —




