終幕とは、新たな劇が始まること
薄暗く夕焼けの空が街を覆っている。
ここは人があまり通らない細い道。住宅街ではあるが、近くに木々が立ち並ぶ森のような場所があるから昼間でも少し暗い。
そこに毎日、俯く1人の少女が通る。きっと帰らなかったら酷い目に遭わされるのだろう。制服の袖から見え隠れする痣が物語っている。少女に居場所はない。故に学校で作られたものかもしれないが。
───なんのために、生きているのだろう。
少女───吸月遊裏は再びぼんやりと心の中で呟いた。
将来に向けて学業に勤しみ、社会での立ち回りの予行練習をし、支えてくれる友人を作り。そんな生活を送るのがこの国では一般的だ。
なのに、なぜ自分はそれができないのだろう。その生活が遠い遠い夢物語になっているのだろう。もしそれがままならなくても、帰宅すれば家族が待っているものなのではないだろうか。教科書や本にはそんな家族形成がある。そしてそれが一般的だというのも常識のはずだ。
───なのに、どうしてわたしは、誰からも忌み嫌われているの?
考えても、無駄だ。
わたしは、吸月遊裏という存在はみんなのおもちゃであって、みんなのストレス発散道具であって、みんなの踏み台でしかない。
ただ真面目に生きようとしただけなのに。遊裏はいらない機能を抑えるために目を閉じた。立ち止まって深呼吸をして、さあ、帰ろう。
そう、思った───。
─────────
カンカン、と鳴る音。
ぐつぐつと小さく煮込むような音が聞こえる。
何かと瞼を開いた。
幾何学模様の白い天井。微かに香る知らない匂い。
上体を起こそうと地面に手をつけ、力を入れようとした時だった。
違和感がいくつも襲ってきた。
まず本当に寝ていたかのような眠気。喉も渇いていて、瞼も微妙に重い。
そして妙に謎の感触がする手首。何か擦れるような音もした。見てみれば、鎖のような真っ黒いものが両手首に巻き付いていた。光沢も何もない、まるで塗りつぶしたような真っ黒いもの。見たこともない物質だった。手首から壁に繋がっている。本当にまるで鎖。
どうやら布団の中で眠っていたようだ。暖かい新品の布団が身体に覆い被さっている。
辺りを見回すと、生活感のあるリビングのような場所だった。と言ってもあまり物は置いておらず、必要最低限のものばかり。
そして数十メートルほど離れた位置に、動くものがあった。いた、というべきなのだろうか。
蒼がかったような黒い髪に、藍色の長袖、黒いパンツ。厚手の手袋をしているのが見えた。そして何よりも際立っていたのは、その人の身体に纏う黒い何か。うねうねと触手のように動き、まるでオーラのように現れては消える。手首についているものと同じのようだった。その黒い何かを駆使して、料理をしているようだった。
明らかに、人間じゃない。
でもその姿に見覚えがあった。
数日前に買った、ぬいぐるみ。その元のキャラクターとあまりにも特徴が一致している。
俗に言うコスプレというやつなのかとも考えた。
でも、動いている。
この黒い何かが宙に浮き、ひとりでに動いている。コスプレにしては人間離れしすぎている。
物音に気付いたのか、その人はこちらに駆け寄ってきた。
「目が覚めた!?大丈夫!?痛いところはない!?」
勢いよく質問攻めされ、少し恐怖を感じた。でも一定距離を保ったまま、彼は話しかけてきていた。
紅い瞳に、整った顔立ち。声も、テレビで聞いたそのまんま、だと思う。
本当に、本物?そんなことあり得る訳がない。だって架空の人物だ。アニメのキャラクターだ。存在している訳がない。
訳がわからず混乱していると、彼はさらに距離を取った。
「ご、ごめん。怖いよね。キミからすれば、突然話したこともない初対面に話しかけられた、だしね。それに僕は、こんなのも持ってるから、余計怖いよね」
少し消極的な態度で彼はその黒いものに触ると、すり抜けた。先程調理器具を持っていたように見えたが、気のせいなのだろうか。
「これは…『影』って呼んでるんだ。キミの思う影と一緒かと言われたら少し迷うけど、でも僕はその影も操れるし、こっちの『影』も操れる。あ、安心して!これは危なくないよ。一応……キミが暴れないように、キミの手首にもつけさせてもらってるけど……それはちゃんと実体化してるから、触れるよ」
よくわからない。でも触ってみると確かに感触がある。不思議な感触。柔らかいような、それでいてしっかりとした芯があるような。
でも、それより。
非常に重要で、だけど聞いたら酷いことをされるかもしれない。最悪殺されてしまうかもしれない。
そんなことを口にしてみた。
「───あなたは、だれ?どうして、わた、しは、ここに、いるの」
声が震えていた。思っていたよりも声にできていたか不安だった。
彼は驚いた表情をして───ニヤリと、口角を上げた。
「僕はイルネス。キミが助けを求めた、イルネスだよ」
柔らかく、ふわりと笑った。
誰もみたことないような、そんな笑顔だと、直感的に思った。
心臓が跳ねたような気がした。
「僕はキミを知ってるんだ。別の世界───僕の世界からずっと、キミを見てた。色々な世界のキミを見て、でもどれも辛くて悲しくて、生きる希望さえ打ち砕かれるような、そんな人生を送っていて。だから、その」
彼は目を逸らしては、繋ぎ言葉で何か言いにくそうにしている。諦めたかのように息を吐くと、ずいっと顔を近づけた。
「よ、要は、キミのことが好きなんだ!!だ、だから、えっと、助けてあげたくて、たくさん愛してあげたくて、えーっと、とにかく!!」
「キミを、幸せにしたい!!」
真剣な眼差しで、キラキラした眼で、彼は言い放った。
これは、幸運なのだろうか、不運なのだろうか。
そろそろ終幕を迎えると思っていた機械的な人生に、イレギュラーが舞い込んできたのか。
この状況を理解するのは些か無理があるが、とりあえずは、まあ。
今まで通り、流れに身を任せてみるとしよう。