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ナツの線香花火

作者: 一ノ瀬



僕には二つ年の離れた妹がいる。彼女の名前はナツ。母さんとナツが病院から帰ってくるその日、僕はどうしようもなくソワソワしていた。待ちに待った瞬間が近づくにつれ、胸の鼓動が早くなるのを感じた。


やがて、玄関のドアが静かに開き、母さんがナツを抱いて家に入ってきた。小さな体を包む白い毛布の中で、ナツは静かに眠っていた。僕はその姿を見て、心の中で何かが変わるのを感じた。


家のリビングに設置されたベビーサークルの中に、母さんはそっとナツを寝かせた。僕はその傍らに立ち、ナツの小さな顔をじっと見つめた。彼女の呼吸が穏やかに上下するたびに、僕の心も落ち着いていくようだった。


そして、僕は決意したように深呼吸をし、ナツの前で大きな声で宣言した。「俺はお兄ちゃんだぞ!」その瞬間、家中が僕の声で満たされ、母さんが優しく微笑んだのを覚えている。


その日の記憶は、今でも鮮明に残っている。ナツが僕の妹として家に来た日、そして僕が初めて「お兄ちゃん」になった日。


僕にとっての妹、ナツはまるで新しいおもちゃが家にやってきたような存在だった。毎日が新鮮で、興奮に満ちていた。朝、保育園に行く前には必ずベビーサークルの横に立ち、ナツの寝顔をじっと眺めた。そして、保育園から帰ると、真っ先にナツの元へ駆け寄り、その横でおやつを食べるのが日課となった。


しかし、赤ちゃんというのは予測不能な生き物だ。ナツは何の前触れもなく突然泣き出すことがよくあった。最初の頃はその度に困惑し、何とかしてあやそうと試みるものの、泣き止む気配は一向に見えなかった。結局、泣き声に根負けして母さんを呼びに行くために、店まで急いで降りていった。


だが、時間が経つにつれ、僕も次第にナツの世話に慣れていった。半年もしないうちに、ナツが泣く理由が少しずつ分かるようになった。オムツが汚れているのか、お腹が空いているのか、その違いを見分けられるようになったのだ。僕は自分の成長を感じながら、ナツとの日々を楽しんでいた。ナツの存在は、僕にとってただの「おもちゃ」以上の、大切な家族になっていった。


時というのは本当にあっという間に過ぎ去るものだ。半年が過ぎ、一年が経った。ナツは成長し、壁やテーブルの足に掴まりながら立ち上がることができるようになった。カタコトながらも、少しずつ言葉を発するようになってきた。


僕は毎日のようにナツが入っているベビーサークルの横に座り、「俺はお前のお兄ちゃんだぞ!」と繰り返し言い聞かせていた。その甲斐あってか、ナツが初めて発した言葉は「ニィ」だった。


その瞬間、家中が驚きと喜びに包まれた。母さんも父さんもその言葉に驚き、特に母さんは最初の言葉が「ママ」ではなかったことに少し落胆していたようだった。それでも、ナツの成長を見守る中で、僕は自分が「お兄ちゃん」として認識されていることに誇りを感じた。


ナツの小さな口から「ニィ」という言葉が出るたびに、僕は胸の中に温かい気持ちが広がるのを感じた。ナツとの絆は日々深まり、僕たち兄妹の絆は確かなものとなっていった。母さんの落胆も、ナツの成長とともに次第に薄れていったようだった。家族全員がナツの成長を喜び、その一瞬一瞬を大切にしていた。


うちは商店街の外れにある、小さなパン屋だ。店は小さいが、地元では結構な人気店で、開店から閉店までいつもそこそこ繁盛している。父さんと母さんはまだ暗いうちからパンの仕込みを始め、閉店後も片付けや掃除で忙しい。だから、保育園から帰るとナツの面倒を見るのは俺の担当だった。


やがて、俺も小学生になり、ナツも四歳になった。四歳にもなると、ナツも随分としっかりしてきた。食べ終わったおやつの皿や飲んだジュースのコップなどは、自分でキッチンまで下げに行くようになった。それだけでなく、俺の食器も一緒に持って行ってくれることが多かった。


ある日、ナツがいつものように俺の食器を片付けてくれているとき、ふと立ち止まり、少し不満そうに言った。「ニィも自分で食べたお皿は自分で持っていってよ!」


その言葉に、俺は笑いながら答えた。「ニィはボスで、お前はニィの家来だからな。そういうのは家来がやるもんだ!」


ナツはその言葉に少し不満げな顔をしたが、結局は笑顔を浮かべ、俺の食器を持ってキッチンへと向かった。ナツとのそんなやり取りが、俺たち兄妹の絆をさらに深めていった。 そしてナツも自分はニィの家来だと納得しているようだった。


その年の夏、ナツは高熱を出した。小さな体で荒い呼吸をするナツの姿は見るに堪えず、母さんが店に出ている間、俺は一生懸命にナツの面倒を見た。冷却シートを額に貼り替えたり、麦茶を飲ませたりしながら、ナツが少しでも楽になるようにと頑張って世話をした。


翌日もまだ熱は下がらなかった。ナツが辛そうに目を開けて、弱々しく「ニィ、何かお話しして…」と頼んできた。その言葉に応えるため、僕は思い出した昔話「桃太郎」をアレンジして話し始めた。


「昔々、あるところに、桃から生まれた桃太郎という男の子がいました。桃太郎はとっても強くて優しい男の子で、困っている人を助けるために旅に出ました。道中で出会った犬、猿、キジと一緒に、鬼ヶ島へ向かうことにしたんだ。」


ナツは目を閉じたまま、静かに話を聞いていた。僕は続けて、桃太郎が鬼ヶ島でどんな冒険をしたのか、どんなふうに鬼を倒して宝物を持ち帰ったのか、次々と話を紡ぎ出した。時折、ナツの顔に微かな笑みが浮かぶのを見て、僕の心も少し軽くなった。


「そして、桃太郎と仲間たちは無事に村に帰り、みんなでお祝いをしました。桃太郎はその後もずっと幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。」


話が終わると、ナツは少し安心したように息をつき、目を閉じたまま「ありがとう、ニィ…」と呟いて眠ってしまった。


その瞬間、俺はナツが少しでも楽になれたことに胸を撫で下ろした。ナツのためにできることを精一杯やることで、病気によって気弱になったナツを励ましたかった。


ナツが眠りに落ちたころ、俺はその小さな体をタオルケットで包み込むようにして、そっと横に寝そべった。ナツの手がタオルケットから少しだけ出ていたので、その小さな手を優しく握り締めた。手のひらから伝わる温もりは、まだ高い熱が続いていることを物語っている。


部屋の中は静まり返り、ただナツの穏やかな寝息だけが聞こえる。僕はその手を握りしめながら、心の中で神様に祈った。「どうかナツの熱が明日には下がりますように…」と。


祈りながら、僕の心は不安でいっぱいだった。ナツが元気になることを願う気持ちは、兄としての責任感と愛情から来るものだった。ナツが苦しむ姿を見るのは本当に辛い。だからこそ、神様にすがる思いで祈り続けた。


その夜、僕はナツの隣に布団を敷き、ずっとその手を握り続けた。普段から家族四人で川の字になって寝ている。部屋の壁側にナツ、母さん、僕、父さんの順で布団を敷くが、壁側を母さんとナツで交換してもらい、ナツの隣になった。


握ったナツの小さな手の温もりが、僕にとっては何よりも大切なものだった。ナツが元気になるまで、俺はどんなことでもしてやろうと心に誓い眠った。



翌朝、微かな揺れと共に「ニィ!朝だよ。起きる時間だよー」という声が耳に届いた。目を擦りながら顔を上げると、そこには昨夜とは打って変わってニコッと笑顔を見せるナツが立っていた。


「もう、大丈夫なのか?」と俺はまだ半信半疑で尋ねた。


ナツは元気いっぱいに「もう、元気になったよ」と答えた。その言葉に胸を撫で下ろしながら、俺はナツの額に手を当ててみた。確かに、昨夜のような熱さは感じられなかった。


その時、母さんが部屋に入ってきて、ナツの脇の下に体温計を入れて体温を測った。数分後、体温計の音が鳴り、母さんが表示を確認すると、平熱であることがわかった。


「良かったな、ナツ。熱が下がって」と俺は心から安堵しながら言った。


ナツは「うん」と元気な声で答え、その笑顔はまるで太陽のように輝いていた。俺はその笑顔を見て、自分の祈りが通じたことを実感し、心の中で神様に感謝した。


その日、ナツが元気を取り戻したことで、家の中には久しぶりに明るい雰囲気が戻った。ナツの笑顔があるだけで、こんなにも家が明るくなるのだと改めて感じた。


それから数日後の夜、庭で花火を楽しむことになった。父さんと母さんが、小さなナツでも安心して楽しめるようにと、手持ち花火をたくさん買ってきてくれた。


僕はライターで蝋燭に火をつけ、その周りに風避けを巻いて、一本の花火に慎重に火を移した。


シュバババ…


花火は勢いよく燃え始め、火薬が燃える独特の匂いが夏の夜を彩った。その香りは、僕にとって夏の思い出の象徴だった。火のついた花火をナツに手渡すと、彼女の顔には大きな笑顔が広がった。


昨年までは危ないからと、ナツに花火を持たせたことは一度もなかった。初めて手にする花火にナツは大喜びで、目を輝かせながら火の揺らめきを見つめていた。


「ナツ!振り回すなよ!危ないから!」と、僕は興奮するナツに笑いながら注意した。


ナツは「うん、わかった!」と元気に答えながら、花火を大事そうに持ち続けた。花火の光がナツの顔をテラテラと映し出し、その瞬間、彼女の笑顔が一層輝いて見えた。


花火の夜も終盤に差し掛かり、庭には静かな余韻が漂っていた。なぜか毎年最後まで残るのは線香花火だ。僕は線香花火に巻かれているセロファンテープを丁寧に外し、一本をナツに手渡した。


「これ、持ってみて」と言うと、ナツは尻側のヒラヒラとした部分を摘み、蝋燭の火に近づけた。すると、パチパチと小さな音を立てて線香花火が燃え上がり始めた。


「いいか、ナツ。最初は“蕾”って言って、まだ小さいんだよ」と僕は説明を始めた。ナツは真剣な眼差しで線香花火を見つめている。


「そして“牡丹”になる。パチパチと力強い火花が、一つずつ弾けだすぞ」と続けると、ナツは「大きくなってきた!」と興奮気味に声を上げた。


「次は“松葉”だ。線香花火の一番の見せ場だな!」と言うと、ナツは「すごい大きくなった!綺麗!」と目を輝かせながら答えた。その瞬間、彼女の顔はまるで宝石のように輝いて見えた。


そして最後は散り菊だ。


「松葉が終わると散り菊だぞ。線香花火の最後ってことだよ。全部燃え尽きるまで玉を落とさないと願い事が叶うってさ」と教えると、ナツは「頑張る!」と真剣な表情で線香花火を見つめ続けた。


しかし、そこはやはり幼いナツの手。緊張のあまり手が震え、線香花火の玉がポトっと地面に落ちてしまった。


「あっ…」とナツはがっかりした声を漏らしたが、僕は優しく微笑んで「大丈夫だよ、ナツ。まだあるからさ」と言った。


「次は頑張る!」とナツは意気込んだ。俺は笑いながらもう一本の線香花火をナツに手渡す。


しばらくして、「よし、これで最後だ。今度は一緒にやろう」と言って、二人で線香花火に火をつけた。パチパチと小さな音を立てて、線香花火が再び燃え上がる。


蕾、牡丹、松葉、散り菊…


「よし、ナツ!ここからだぞ。心を静かにして、ゆっくりと息をして…」と僕はナツに声をかけた。小さな火花が散る線香花火を二人で真剣に見つめる。


その時だった。緩やかな風が吹き、ナツの線香花火が風に揺られて俺の線香花火とくっついた。


「あっ!合体した!」とナツは喜びの声を上げた。俺は冷静に「よし!二人で慎重にな…」と声をかけ、僕たちは静かに、なるべく線香花火を揺らさないように見つめ続けた。


これはナツとの協力作業だ。僕がミスっては兄としての沽券に関わる。何としても最後まで玉を落とさないようにしなくてはならない。心の中でそう思いながら、僕は線香花火に集中した。


やがて、二つの線香花火は玉を落とさずに燃え尽きた。


「「やったぁ!」」


僕とナツは同時に声を上げた。喜びの瞬間が夜空に広がり、僕たちの心にも深く刻まれた。


するとナツは「私の願い事は… また、来年もニィと花火が出来ますように!!」と手を合わせて燃え尽きた線香花火に拝むように言った。


その言葉を聞いた瞬間、僕の胸は温かい感情で満たされた。「もちろん、来年も必ず一緒に花火をしよう」と僕はナツに約束した。


それから何回かの夏が過ぎ、春がやってきた。今日からナツは小学一年生になる。どっちが背負われているのかわからないほど大きな水色のランドセルが、ピカピカに光っている。


ナツは今まで見たことのないような笑顔でランドセルを背負い、家中を朝から走り回っていた。その姿はまるで、小さな太陽のように輝いている。


入学式は午後からなので、僕はひと足先に学校へ向かう。明日からはナツと一緒に登校することになる。


下校途中、僕は母さんと手を繋いで歩いてくるナツを見つけた。これから入学式だ。ナツは僕を見つけると、少し照れた様子で小さく手を振った。


「よっ!ピカピカの一年生!」とからかうように声をかけると、ナツは余計に照れた感じで怒った。しかし、その怒りもどこか嬉しそうで、僕は心の中で微笑んだ。


入学式の会場では、新しい洋服に身を包んだナツが、緊張と期待が入り混じった表情で座っていたらしい。父さんと母さんも、誇らしげにナツを見守っていたそうだ。


式が終わり、ナツは再び水色のランドセルを背負って家に帰る。ランドセルが大きすぎて、まるでランドセルに背負われているように見えるナツ。教科書の重さでフラフラと歩くその後ろ姿が両親にとってツボだったらしく笑いを堪えるのに大変だったそうだ。


「ナツ、明日から一緒に学校に行こうな」と僕は言った。ナツは嬉しそうに頷き、「うん、ニィと一緒に行く!」と答えた。


その夜、ナツはランドセルを枕元に置いて眠りについた。僕はこれからの学校生活が楽しいものになるようにと心の中で祈った。


翌朝、ナツと一緒に学校へ登校することになった。水色のランドセルが重たくて、ナツはフラフラしながら歩いている。僕はそのナツを支えながら、一歩一歩ゆっくりと進んでいく。いつもの数倍は疲れるけれど、ナツのためなら全然構わない。


学校の昇降口に着くと、僕はナツの下駄箱を確認し、上履きに履き替えさせた。ナツの小さな手を握りながら、ナツのクラスの前まで送っていく。


「ナツ、トイレや具合が悪くなったら先生に言うんだぞ。それから、分からないことがあったら先生に聞きな。それでも分からなければ、2階の3-4までおいで。ニィはそこにいるから。」


ナツは大きな目で僕を見上げ、「うん。わかった! ニィ、ありがとう!」と言って元気に教室に入っていった。その背中には、まだ少し大きすぎるランドセルが揺れている。


僕はナツの姿を安心して見送り、自分のクラスへ向かった。心の中で、ナツが一日を無事に過ごせるようにと祈る。


自分の教室に入ると、友達が「お前、今日は遅かったな」とからかってきた。僕は笑って、「ナツを送ってきたんだよ」と答えた。その瞬間、友達も理解したように頷いた。


授業が始まると、僕はいつも通りに勉強に集中した。しかし、ふとした瞬間にナツのことが頭をよぎる。ナツは今、ちゃんとやっているだろうか。先生の話を聞いているだろうか。


昼休みになると、気になったのでナツのクラスの前まで行くと廊下側の窓からソッと中を覗いた。するとナツは友達と楽しそうに遊んでいる。そんな姿を見て、僕は少し安心した。


学年が違うので普段ならナツの方が下校が早い。たまに一緒の下校になるとナツと一緒に帰る。ナツは笑顔で「ニィ、今日楽しかったよ!」と言ってくる。その言葉に、僕は学校生活を楽しんでいるんだなと安心すると、ナツの手をギュッと握り返した。


ナツの小学生初の夏休みがやってきた。この夏は、二人でたくさんの思い出を作ることに決めた。プールへ行ったり、駄菓子屋でアイスを買って食べたり、そして宿題も一緒にやった。


ナツは宿題を前にすると、時折不貞腐れることがある。問題が分からないと、すぐに顔をしかめてしまうのだ。しかし、僕が丁寧に教えてあげると、ナツは不思議と問題をスラスラと解いていく。その様子を見ていると、なんだか誇らしい気持ちになる。


両親は相変わらずお店が忙しいので、家族全員が顔を合わせるのは昼食と夕食の時くらいだ。その短い時間に、ナツは一生懸命に今日の出来事を話す。時には、意地悪く僕の悪口を言ったりもする。それでも、ナツが楽しそうに話す姿を見ると、僕は嬉しくて仕方がない。


そんなある日の夕食時、電話が鳴った。受話器を取ると、クラスの友達、健二からだった。「明日、隣町の森にカブトムシを取りに行かないか?」と誘われたのだ。


僕は一瞬考えた。ナツも連れて行けるだろうか。カブトムシを捕まえるのは、きっとナツにとっても楽しい経験になるに違いない。


「いいね、行こう!」と僕は答えた。電話を切ると、ナツが目を輝かせてこちらを見ていた。「ニィ、何の話?」と興味津々だ。


「明日、健二たちとカブトムシを捕まえに行くんだ。ナツも一緒に行くか?」と聞くと、ナツは嬉しそうに頷いた。


その夜、ナツは興奮してなかなか寝付けなかったようだ。明日の冒険に心を躍らせているのだろう。僕もまた、ナツとの新しい思い出が増えることを楽しみにしながら、静かに目を閉じた。


夏の風が窓から優しく吹き込む中、明日はどんな一日になるのか、期待で胸がいっぱいだった。


翌朝、まだ暗い四時半に目覚ましの音が鳴り響く。虫取りの時間は早朝が勝負だ。両親もパンの仕込みがあるため、同じ時間に起き出した。


僕は隣で寝ているナツをそっと揺すり起こす。「ナツ、カブトムシ取りに行くんだろ?早く起きないと。」ナツは半分寝ぼけ眼で、ゆっくりと立ち上がった。


しかし、何かがおかしい。ナツの顔に違和感を覚える。普段の元気な表情とは少し違うようだ。それでも、特に気にすることなく、母さんが焼いてくれた食パンと目玉焼き、そして牛乳を一気に平らげた。


ふとナツを見ると、彼の食べるスピードがいつもより遅い。母さんもその変化に気づいたようで、心配そうにナツの額に手を当てた。


「あら、この子、少し熱があるみたい…」と母さんが言うと、体温計を取り出してナツの脇に挟んだ。


ピピピピ…と音が鳴り、計測が終わる。母さんが確認すると、体温は六度九分。ギリギリ平熱だが、風邪を引いた可能性が高い。


母さんは優しくナツに言った。「今日はニィと出掛けないでお留守番だね。」しかし、ナツは真っ赤な顔をして、強く首を振った。「やだ! ナツもニィと一緒にカブトムシ取りに行く! 絶対行く!」


その言葉に、僕は少し困ってしまった。ナツの気持ちは分かる。せっかくの夏休み、楽しみにしていた冒険を諦めたくないのだろう。けれど、無理をさせるわけにはいかない。


「ナツ、今日は大事を取って休んだ方がいいよ。また別の日に行こう。」僕は優しく説得を試みた。


ナツはどうしても譲らない。「カブトムシ取りに行くんだー!」と声を荒げ、ついには泣き出してしまった。僕もここで健二に虫取りを断るべきだったのかもしれないが、どうしてもカブトムシが欲しかった僕は、ナツを必死に説得しようとした。


それでもナツは頑として引き下がらない。仕方なく、僕は母さんと相談した。途中でナツの具合が悪化したらすぐに帰ること、森に着いても無理をさせないこと、水分をしっかり取らせること、そして絶対にナツから目を離さないこと。これらの約束を交わし、僕たちは自転車で健二の家に向かった。


ナツの自転車は僕や健二の自転車よりも二回り小さい。タイヤも小さいため、漕ぐ回数も僕たちより多くなる。それでも、必死な形相で僕たちに引き離されないようにとペダルを漕ぎ続けていた。


健二はすでに自宅の前で待機していた。僕は健二にナツの事情を話すと、彼は「それじゃ、ナッちゃんが付いて来れるようにゆっくり行こう」と優しく言ってくれた。


先頭に健二、真ん中にナツ、そして後尾には僕が続く形で、一列になって出発した。健二はナツがちゃんと付いて来ているかを気にしながら走ってくれている。僕もまた、ナツの後ろ姿を見守りながらペダルを踏んだ。


道のりのちょうど半分くらいまで来たところで、健二が一旦自転車を止めた。「少し休憩しよう」と提案し、近くにあったほったて小屋の軒下の日陰に腰を下ろした。三人で水筒の麦茶を回し飲みし、喉を潤した。


ナツの頬は朝よりも赤みを増していた。僕は心配になり、「大丈夫か?」とナツに尋ねると、ナツは少し息を苦しそうにしながら「だ、大丈夫…」と元気なく答えた。


いや、どう見ても大丈夫じゃない。僕は焦りながらナツの額に手を当てた。ヤバいな…朝よりも熱が上がっている。健二もナツの額に手を当て、「おい、これ相当な熱が出てるぞ。夏ってことを差し引いても八度はありそうだ」と言った。


僕は考えた。このままナツを森まで連れて行くのは無理だ。幸い、大通りを真っ直ぐ進んできただけなので、家に帰るのもほぼ直進すれば商店街に着く。


もう一度、僕はナツを説得した。「なぁ、ナツ。お前はこれ以上来るのは無理だよ。熱もあるし、顔も真っ赤だぞ。息苦しいだろ?」するとナツは顔をキッとさせ、「ナツも行くんだー!」と大きな声で叫んだ。いつもならナツの我儘を流して聞いてしまう僕でも、この時ばかりは違った。


「駄目だナツ!お前をこれ以上一緒には連れて行けない!お前はこのまま自転車に乗って家に帰れ。真っ直ぐにしか来てないから商店街までの道は分かるだろ。」と大きな声で言うと、ナツはワンワンと泣き出した。


「ナツ、お前のボスは誰だ?」と聞くと、ナツは弱々しい声で「ニィ…」と答えた。


「そうだ!ボスは僕だ。そのボスの命令だ!お前はここで引き返して家で大人しく寝てろ!」と半ば強引にナツに命令した。


「んじゃ、ナツのカブトムシも取ってきてよ…」と言ったので、僕は大きく頷いた。


「それと…いつもニィばかりボスでズルいじゃん。あたしもたまにはボスになりたい…。」と言ったので、僕は「分かった。ナツの風邪が治って元気になったら一日だけボスを交代してやる。だから今日は帰れるな?」と聞くと、ナツは小さく頷いた。


それからもう少しだけ休んで、僕はナツに自分の水筒も渡した。「いいか?ナツ。ゆっくりと帰るんだ。途中で疲れたら日陰で休んで麦茶を飲みな。ニィのも渡すから足りなかったら飲んでいいぞ。」と僕はナツの自転車のカゴに水筒を入れ、ナツの背中を見送った。


ゆっくりと揺ら揺ら自転車を漕ぐナツの姿が見えなくなるまで見送ると、僕は健二と共に森へ向かって出発した。


『ナツ、僕がナツに一番大きいカブトムシを取ってきてやるからな!待ってろよ、』


心の中でそう誓い、僕はペダルを力強く踏み込んだ。


その日、夕方まで僕たちは森の中を駆けずり回り、何匹かのカブトムシとクワガタを捕まえた。その中でも一番角が立派で体格の良いカブトムシを、ナツへのお土産に決めた。僕は健二と一緒に帰り道を進みながら、得意満面で自転車のペダルを踏んだ。早く帰ってナツに見せてやりたい!そのことばかりが頭に浮かんでいた。


しかし、商店街の外れにある自宅に着くと、いつもとは何かが違っていた。普段なら店の前には数台の自転車が並び、お客さんがパンを買っている時間だが、その日は自転車が一台も止まっていなかった。


「あれ?」といつもと違う雰囲気に戸惑いながら、僕は店の入り口の扉に目をやった。そこには一枚の張り紙が貼られていた。


「本日、事情の為閉店しました。 店主」


この張り紙を見た瞬間、胸の中に不安が広がった。事情とは何だろう?ナツの体調が悪化したのだろうか?それとも別の何かがあったのか?


僕は急いで自転車を降り、店の裏口へと駆け寄った。


玄関のドアは固く施錠されており、中に入ることができなかった。普段から自宅や店には父さんか母さんがいるので、玄関の鍵を持ち歩く習慣がない僕は、ドアのノブを何度もガチャガチャと回したが、当然開くはずもなかった。


「一体、どうしたんだ?」と一抹の不安が胸をよぎり、その場に座り込んだ。


すると、隣の手芸洋品店のおばちゃんが、その音を聞きつけてサンダルのまま駆け寄ってきた。「あんた!やっと戻ったのかい!」と息を切らしながら僕に声をかけてきた。


僕は驚きながら「どうしたの?なんかあったの?」と聞き返すと、おばちゃんの顔は一気に青ざめ、こう言った。


「な、なっちゃんが…さっき自転車に乗っていてトラックとぶつかったって…。それでお父さんとお母さんは店を閉めて急いで病院に…。あんたが帰って来たら面倒を見てくれと頼まれたんだよ。」


その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中は真っ白になった。信じられない。ナツが事故に遭ったなんて。ついさっきまで森での冒険のことしか考えていなかった僕の心は、一瞬で不安と恐怖に支配された。


「どこの病院?」と震える声で問いかけると、おばちゃんは病院の名前を教えてくれた。僕は礼を言うと、自転車に飛び乗り、全速力でペダルを踏んだ。ナツが無事であることを祈りながら、僕は風を切って走り続けた。


病院に着くと、すぐに受付でナツのことを尋ねた。看護師さんが慌てたように案内してくれ、集中治療室の前には父さんと母さんが力無くベンチに座っていた。



「父さん!母さん!」と僕がベンチに駆け寄ると、両親は立ち上がり、僕を強く抱きしめた。母さんはその瞬間に堪えていた涙をこぼし、「ナツが…ナツが…」と震える声で繰り返した。


ある程度冷静さを保っている父さんが、僕に静かに語り始めた。


「お前と出かけてから1時間くらい経ったとき、商店街の肉屋のオヤジさんが駆け込んできたんだ。通りの交差点で信号待ちをしていたナツの自転車にトラックが突っ込んで、ナツがえらい勢いで飛ばされたって。」


父さんと母さんは、急いで現場に駆けつけた。トラックの運転手は警察に通報し、ナツを救護していたという。ナツは意識を失ったまま、両親とともに救急車でこの病院に運ばれてきたらしい。


両親は、僕と一緒に出かけたはずのナツが、なぜ一人であの交差点にいたのか不思議に思っていた。


僕は、ことのあらましをすべて話した。ナツの体調が急に悪くなったこと、日陰で休憩したこと、余分に水筒を渡したこと、そして…一人で帰らせたことも。


すると父さんは、怒りを抑えきれずに声を荒げた。「なんで、そんな状態のナツを一人で帰らせたんだ!!ナツはまだ小学一年だぞ!兄貴のお前がしっかりと面倒を見ると言ったから同行を許したんだ!」と、集中治療室の前で怒鳴った。


僕は物心ついてから父さんに怒鳴られたことなどなかったので、その言葉にとても驚いた。そして、急に怖くなって母さんに抱きつき、涙をこぼしてしまった。


母さんは優しく僕を抱きしめ、「大丈夫よ、大丈夫。ナツはきっと元気になるわ」と、震える声で僕を慰めてくれた。


その時、僕は初めて自分の責任の重さを痛感した。ナツを一人にしたことが、こんなに大きなことを引き起こすとは思ってもみなかった。


どれほどの時間が過ぎたのだろうか。病院の廊下には、看護師や訪れた人々が行き交っている。しかし、僕にはその雑踏すらも遠く感じられ、耳に入ってこない。ただ、ナツのことが一瞬たりとも頭から離れないのだ。


ついさっきまで一緒にいたナツ。カブトムシを楽しみにしていたナツ。しかし、今は厚く大きな扉の向こうで、一人で頑張っている。


僕は心の中で神様に何度も願った。「どうか、ナツが無事でありますように…」そんな祈りを繰り返し続けた。


すると、集中治療室のドアが静かに開き、医者が姿を現した。


「ご両親様ですか?」と問いかける医者に、両親は頷いた。「では、こちらの部屋へどうぞ。」医者は治療室の隣の部屋に案内した。


母さんは僕に「ここで待っていてね」と優しく言い残し、父さんとともに医者と一緒に部屋へと入っていった。


残された僕は、廊下のベンチに腰掛け、再び祈りを捧げた。ナツの無事を、ただひたすらに願い続けた。廊下の明かりが少しずつ変わりゆく中で、僕の心は不安と希望の狭間を揺れ動いていた。


それから三十分もしないうちに、治療室の隣の部屋から両親と医者が出てきた。母さんは父さんに肩を抱かれ、ハンカチを目に当てている。


医者は両親に軽く頭を下げると、再び治療室の中へと戻っていった。


僕はベンチから立ち上がり、近くへ駆け寄ってナツの様子を聞こうとしたが、言葉が喉に詰まり、うまく出てこない。すると、父さんが「近くにファミレスがあるから、そこで何か食べよう」と提案した。


ナツのことが心配で、何も喉を通らない気もしたが、医者との話を聞きたかったので、僕は頷いた。


注文をして食事が届くまでの時間、僕は思い切って両親に尋ねた。


「ねぇ、ナツの様子はどうなの?すぐ治るんでしょ?退院はいつなの?」と矢継ぎ早に聞く。


父さんは大きく一つ深呼吸をした。「ナツは…ナツはな…」僕はゴクっと音を立てて唾を飲み込んだ。「ナツは、頭を強く壁に打ちつけたらしい。脳内にかなりの出血があって…」父さんは言葉を詰まらせる。「手術でいろいろな治療をしてくれて、今は少し安定しているらしい。」


ここまで聞いて、僕は少しだけホッとした。


「しかし、腕や足、肋骨なども数カ所骨折している。顔にも大きなすり傷もある。だが、頭の怪我が一番大きな怪我らしい。も、もしかしたら…ナツはもう目覚めないかもしれない…と医者に言われた。」


父さんがそう言うと、涙が溢れ、母さんは泣き出してしまった。


「えっ?目覚めない?ナツが?目覚めないの?起きないってことだよね?えっ?じゃあ、大人になっても寝たきりなの?そんな…嘘でしょ?起きるに決まってるよ!」と僕も大きな声を出してしまった。


そして父さんは続けた。「最悪の場合は回復せずに…悪化すれば…命も…。」


その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中に花火が打ち上がったように、訳が分からなくなった。涙が止めどなく流れ、心の中で叫び続けた。「ナツ、お願いだから、目を覚まして…」


それから数日間、家の中は慌ただしく動いていた。両親は警察へ出向いたり、保険屋さんが訪れたりと、日々の生活は一変していた。商店街の人々も大勢お見舞いに来てくれたが、その度に心の中にぽっかりと空いた穴は埋まることがなかった。


ナツはまだ集中治療室にいて、両親でさえ面会は許されなかった。病院へ持って行けるのは、ナツの着替えやタオルなど、身の回りの必要なものだけだった。


僕自身もあの日以来、一歩も外に出ず、家の中でただ座っているだけの日々を送っていた。心の中では、あの時どうしてナツを一人で帰してしまったのか、と後悔の念が渦巻いていた。


考えれば考えるほど、その思いは深くなり、自分を責める気持ちが強くなるばかりだった。過去を変えることはできないと分かっていながらも、その思いは消えることなく、心の奥底に重くのしかかっていた。ナツの無事を願う気持ちと、自分への責め苦の狭間で、僕はただ静かに時間が過ぎるのを待つしかなかった。


それからさらに数日が過ぎた。僕は相変わらず家から出ずに過ごしていた。両親は一昨日から店を再開させ、朝から忙しく働いている。


ベランダの朝顔は、ナツが一学期末に家に持ち帰ったものだ。僕はコップに水を入れ、朝顔の鉢にそっと水を与える。毎日のように新しい朝顔が花を開き、ピンクや紫の美しい色彩を見せてくれる。


その時だった。家の電話がけたたましく鳴り響いた。


「もしもし…⁈」


電話は病院からだった。親に代わるように言われたので、僕は急いで母さんを店まで呼びに行き、電話を代わった。


母さんは「えっ!は、はい。はい、はい分かりました!」と、焦った様子で電話に応答していた。そして、電話を終えると小走りで店に戻り、父さんと何かを話している。


僕はその様子を階段の下から見ていた。父さんと目が合うと、父さんは「おい!今から病院へ行くぞ!お前もさっさと用意をしろ!」と声を掛けた。


急いでシャツとズボンを身に着け、玄関で両親を待った。母さんは店に張り紙をし、父さんは店の前に車を回してくる。


三人で車に乗り込むと、父さんはいつもより強くアクセルを踏んだ。車内には緊張感が漂い、僕は二人にどうしたのか聞きたかったが、その答えを聞くのが恐ろしくて、言葉を飲み込んでしまう。


しかし、意を決して両親に尋ねた。「何があったの?」と。心臓がドキドキと高鳴る中、その答えを待つ僕の手は、膝の上で小さく震えていた。



運転席の父さんは、一つ咳払いをしてから静かに口を開いた。


「ナツの…容態が急に悪くなったらしい…。」


「えっ!」思わず声が出てしまった。


父さんは続ける。「病院の看護師さんが言うには、もしかしたら最後かも知れないと…。とりあえず、急いで病院に来てくれ…と言われたんだ。」


その言葉が終わると同時に、母さんは声を上げて泣き出してしまった。その姿に僕もつられて涙が込み上げてきたが、必死に下唇を噛んでこらえた。


『死ぬわけない!ナツが死ぬわけないんだ!』と心の中で何度も繰り返す。『だからきっと今回だって、ちょっと具合が悪くなっただけで大丈夫に決まってる!』そう自分に言い聞かせるように、念じるように、必死に心の中で叫び続けた。


車の窓の外を流れる景色は、まるで別の世界の出来事のように感じられた。現実感がどこか遠く、心の中で渦巻く不安と恐怖が、僕の胸を締め付けて離さなかった。


病院に着くと、僕たちは駆け足で受付へと向かった。担当の看護師さんが現れ、無言で病室へと案内してくれる。


病室のドアの前で、看護師が静かに口を開いた。


「今、娘さんは非常に危険な状態です。後ほど先生からの説明があると思います。こちらでは出来る限りのことはしていますが、後は娘さんの気力と体力の問題もあります。意識はまだ戻っていませんが、静かに話しかけてあげてください。不思議なもので、意識がなくともご本人に聞こえている場合もありますから。くれぐれも大きな声などは出さずに、静かにお願いします。」


僕たち三人は、ただ黙って頷いた。そして、看護師が開けたドアから病室へと足を踏み入れる。


薄いカーテンで仕切られたベッドの上には、ナツが静かに寝ているのだろう。酸素を送る機械の音なのか、シューシューという音が静寂の中で規則的に響いている。


病室には別の看護師さんもいて、僕たちに気づくと「どうぞ」と優しく声をかけ、薄いカーテンをそっと開けてくれた。


僕は恐る恐る視線を上げ、ベッドの上のナツを見た。彼女の頭には包帯がぐるぐると巻かれ、顔にはいくつものガーゼが貼られている。口元には酸素マスクが装着され、その無機質な機械音がシューシューと静寂を切り裂いていた。


ベッドの周りには、ドラマでしか見たことのない心電図モニターや点滴スタンドが並んでいる。現実の光景とは思えず、まるで悪夢の中にいるかのようだった。


その姿を目にした瞬間、我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出し、熱い雫となって頬を伝った。父さんがそっと僕の背中を押す。何か言葉をかけてやれということなのだろう。


看護師さんが用意してくれたパイプ椅子に腰を下ろし、僕はナツの点滴針が刺された手をそっと優しく握った。彼女の手は冷たく、しかしどこかでその温もりを感じたいと願った。


僕の心には、伝えたい言葉がたくさんあった。それでも、どんな言葉を選んでも足りない気がして、ただナツの手を握りしめることしかできなかった。静かな病室の中で、僕の心音だけがやけに大きく響いているように感じた。


冷たいナツの手を優しく握りしめ、僕は彼女の耳元で小さく語りかけた。


「ナツ…ニィだよ。分かるか? 父さんも母さんも一緒に来たぞ…。ナツ…聞こえるか?」


背後では、父さんと母さんが鼻を啜っている音が静かに響いていた。


しばらくナツの手を握っていると、僕の体温が伝わったのか、少しだけナツの手が温かくなったような気がした。


「ナツ…、ニィが分かるか? もし、分かったなら僕の手を握り返してみて。」


無理だと分かっていても、ほんの僅かな可能性に賭けて、僕はナツに囁いた。


「あっ!」


その瞬間、ほんの僅かだがナツの小指が少しだけ強く僕の手を押したように感じた。僕は思わず興奮を抑えきれずに叫んだ。


「ナツ!ニィだよ!そろそろ起きる時間だぞ!いつまで寝てるんだ!」


焦りながらも、僕はナツに向かって言葉を投げかけた。すると、先程よりも強く小指が僕の手を押した。


「ほら!起きないと!頑張れナツ!」


何度も繰り返し、僕はナツの顔を見ながら一生懸命に励ました。涙が止まらないまま、僕は声をかけ続けた。


すると、ナツの瞼がピクピクと痙攣し、ゆっくりと目を開いた。


その瞬間、驚いたのは僕たち家族よりも看護師だった。「先生を呼んできます!」と言い残し、彼女は病室を走り出て行った。


僕はすかさずナツに話しかけた。


「ナツ!ナツ! 僕が分かるか? ニィだよ!ニィだよ!」


ナツの目が僕を捉えた瞬間、僕の心は希望で満たされた。ナツが戻ってきてくたんだと。


ナツが僕を見つめると、その口元がパクパクと動き始めた。何かを言いたいのだろうが、まだ言葉にはならないようだ。


僕はナツの口元に耳を近づけ、「どうした? 何か欲しいのか?」と優しく問いかけた。


すると、ナツは本当に蚊の鳴くような声で、「ニィ…」と一言だけ絞り出した。


「あぁ、そうだよ。ニィだよ。ほら、父さんも母さんも一緒だよ。」


ナツはその小さな瞳をゆっくりと両親の方へ向け、小さな笑顔を浮かべた。父さんも母さんも、跪くようにベッドに寄り添い、ナツに優しく話しかける。


僕は場所を譲ろうとそこから離れようとしたが、ナツは僕の手をしっかりと離さない。


「ニィ…?どこ? ニィ?」


「ここにいるよ!目の前にいるじゃないか! 分かるか?」


ナツは目を開けてはいるが、焦点が合っていないのか、僕の顔を追えないようだった。


「ニィ…、なんかね…よく目が見えないよ。ニィの顔がボヤけて見えない…」


僕はナツの顔のすぐ前に自分の顔を近づけて言った。


「ほら!ここにいるだろ!ニィだよ。」


しかし、ナツは見えているのか見えていないのか分からないが、少しニコッと笑った。


「ニィ…ナツ眠いよ。すごく眠いよ。でもね、とても寒い…。」


その言葉に僕は焦り、「ナツ!寝てはダメだ!寝るな!」と必死に呼びかけた。


しかし、ナツはまたニコッと微笑んだ。その笑顔は、どこか穏やかで、まるで全てを受け入れているかのようだった。僕はその笑顔を見て、心の奥底で何かが締め付けられるような感覚を覚えた。


僕は、このままナツが眠ってしまったら二度と起きないことを直感的に感じていた。そう、それはナツがこの世を去ってしまうということだ。


涙をこぼしながら、僕は必死にナツに話しかけた。


「ほら、ナツ! 今年も庭で花火やるんだろ?この前一緒に買いに行ったじゃんか!きっと楽しいぞ!線香花火でまた勝負しよう!今年はナツが勝つかもしれないぞ!」


思いつく限りの言葉を次々と口にした。


「カブトムシとクワガタも家にいるんだ!一番大きなカブトムシはナツへのお土産だぞ。ニィが必死になって探したんだ!だからナツが餌をあげなきゃ!」


ナツは再び目を閉じてしまったが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。


僕はナツが一番喜びそうな言葉を探し続けた。


「ナ、ナツ! 今日からナツがボスになったんだぞ!僕がナツの家来だ。家来はボスの言うことをなんでも聞いてやる。だから寝るな!夏休みのドリルもやってやるし、スイカも大きいのを食べても良いから!それにボスは…」


涙をポロポロとナツの顔に落としながら、僕は必死に話し続けた。


すると、ナツは目を閉じたまま口をパクパクと動かし始めた。


「えっ?なんだ?どうした?」


僕はナツの口元に耳を近づけた。


「ナツはニィの家来でいい… ニィがずっと一緒にいてくれるなら…」


「いるよ!ずっといるから!だから…」


そして、ナツは最後に一言、「ニィ…。」と囁いた。


ナツが初めて発した言葉は「ニィ」

そして最後に残した言葉も「ニィ」だった。


その瞬間、何かの医療機器がけたたましく鳴り響いた。病室のドアが勢いよく開き、数名の医者と看護師が駆け込んで蘇生を始めた。


看護師に促され、僕は部屋から出され、廊下にへたり込んでしまった。病室からは医者や看護師の大きな声が聞こえてくるが、僕は放心状態で、ただその場に座り込んでいた。


数日後、ナツの葬儀がしめやかに営まれた。享年七歳という短い生涯を終えたナツは、多くの人々に見送られて天国へと旅立った。同じクラスの友達や商店街の人々、保育園時代の友達やその両親、先生たち。とにかく多くの人々がナツの葬儀に足を運んでくれた。


両親は葬儀の最後まで涙をこらえようとしていたが、出棺の前の挨拶ではとうとう泣き崩れてしまい、親戚の助けを借りてどうにか出棺を終えた。


火葬場での最後の別れの時、僕は不思議と涙を流さなかった。綺麗に整えられたナツの姿を見て、事故後の痛みや辛さがやっと消えて天国へ行ったのだと思うと、ただ「良く頑張ったな」と素直に見送ることができた。


しかし、家に帰ると心が急に乱れた。ナツの学習机に置かれたランドセルや工作、玄関にはナツの靴、キッチンには茶碗や箸、コップが並んでいる。


確かにこの家にはナツがいた。何年も前から一緒に住んで、たくさん遊んだ。


だけど、もうナツはこの家にはいない。もう二度と花火もプールも一緒に行けない。寝相が悪くて布団を蹴飛ばすナツを直してやることもできない。


そして、僕の心は粉々に壊れ散った。


丸一日、ナツの机の前で泣いては嘔吐を繰り返した。食事も喉を通らず、ガリガリに痩せ細った。夜も眠れず、突然発狂することもあった。


正直、今になってはその頃のことはよく覚えていない。ナツが亡くなってから数年間の記憶は、とても曖昧なのだ。


高校を卒業するまで、僕は心療内科に通い、薬を服用していた。高校に入ると少しずつ症状が良くなり、大学に入る頃には薬を飲むこともなくなり、普通の生活を送れるようになった。


大手の製薬会社に入社し、数年後に付き合っていた彼女と結婚。今では娘が一人いる。


娘は来年、幼稚園を卒業して新一年生になる。そんなある日、嫁の両親が自宅へ遊びに来た。


「そろそろ来年の入学に向けてランドセルを買いに行かなきゃね」と娘に話すと、娘は部屋から出て行き、しばらくして戻ってきた。


その背中には水色のランドセルがあった。


「あたし、このランドセルあるからコレがいい!ねぇ、パパこのランドセルをあたしに頂戴!」


娘はランドセルを背負いながら部屋の中を嬉しそうに駆け回った。


「ねぇ!パパ!いいでしょ?このランドセルで学校に行っても?」


僕は娘に微笑んで言った。


「あぁ、いいよ。夏美が気に入ったならそのランドセルをあげるよ。でも、そのランドセルはパパが子供の頃からずっと大切にしてきたものなんだ。だから夏美も大切に使ってくれると嬉しいな。」


娘の夏美は「うん、わかった!ずっと大切に使う!」とさらに喜び、部屋を駆け回った。


そう、夏美が背負っている水色のランドセルは、妹のナツのものだった。両親はナツが使っていた茶碗や箸、細かい物を何一つ捨てることなく、大事に木箱に入れて保管していた。


僕は小学生の時、両親に頼み込んでナツのランドセルをもらった。自分の机の隣にナツの机を置き、埃がかぶれば拭き、たまにワックスで磨いていた。それをすることで、ナツと一緒にいるんだと信じていた。結婚を機に家を出る時もランドセルを持って行った。嫁にも付き合っている時にナツのことは話していた。それに対して嫁も理解を示してくれていた。


8月生まれの娘の名前を決める時も、嫁が「夏」を入れてあげてと言ってくれた。僕はナツの“夏”と嫁の琴美の“美”を取って、名前を“夏美”に決めた。


その夜、義両親と嫁と娘と一緒に庭で花火をした。


キャッキャと騒ぐ娘に注意をしながら、手持ち花火を持たせ、ゆっくりとした時間を過ごした。


そして最後に残ったのは線香花火。僕は夏美に線香花火の説明をした。


「最初はな、蕾って言うんだ…」


小さく火がついた線香花火を見ながら、ナツを思い出した。ナツは線香花火で言えば蕾のまま人生を終えてしまった。やっと花が開く牡丹になる前に…


そんなことを考えながら娘に目をやると、見事に散り菊まで落とさず続けていた。


その時、少し強めの夜風が吹いた。「あっ!落っこちた!」と残念がる夏美。


僕は微笑んで、娘の肩に手を置いた。「大丈夫だよ、またやればいいさ。」


夏美はうなずき、再び線香花火を手に取った。夜空には星が瞬き、ナツもどこかで見守ってくれているような気がした。


終わり

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