《第一話 喫茶ペンブローク》
「喫茶ペンブローク」は、中野ブロードウェイの近くにお店を構えている。
コーヒーがとても美味しい喫茶店だ。高校二年の三学期のときからバイトとしてお世話になって二年以上が経った。俺の名前は真神陽太。この「喫茶ペンブローク」にほど近い大学で脚本家を目指して勉強している大学二年生だ。
「マスター、三番、ブレンド、一です」俺はカウンターにいるダンディな男性に声をかけた。彼はこの店の店主で、跳ね上がった口ひげをつまんでイジりながら「ブレンド、一、了解」と答えた。
マスターはコーヒーミルにコーヒー豆を入れて挽き始めた。ゴリゴリ、ゴリゴリと心地よい音が聞こえてくる。挽いた豆からは豊かな香りが立ち、鼻をくすぐった。
「良い香りですね、マスター」クンクンと思わず鼻を揺らして嗅いでしまう。
「とてもいい豆が入ったんだよ」
「なんだか甘い香りがしますね」
「それがこの豆の特徴だよ」
マスターがロートの中を竹べらでかき混ぜるとさらに甘い香りが立ち、また、クンクンと鼻を揺らして嗅いでしまう。
コーヒーの香りが好きだ。
仕事中でもリラックスができて、忙しくても慌てずにいられる。ここの仕事をやり始めてからは前より焦って失敗することがなくなった。常にコーヒーの香りを嗅いでいるからだろうか。
マスターがブレンドを作っている間、お客さんから新たなオーダーを受ける。白髪が混じり始めた三十代くらいの男性はオムライスと食後にコーヒーゼリーをオーダーした。
「オムライスと食後にコーヒーゼリーですね、かしこまりました」手書き伝票にオーダーを書き、控えをテーブルに置いてある丸い筒状の伝票立てに差し込んだ。カウンターに戻り、厨房にオーダーを通した。
「オムライス一つ、お願いします」
「あいよ〜」厨房の中から落ち着いた、柔らかい女性の声が返ってきた。この喫茶店の厨房を取り仕切る料理長のユミさんだ。
「五番テーブルもうすぐ上がるから、少し持てって」
「はい、わかりました」
コンロの前に立つユミさんは、フライパンから鮮やかなオレンジに染め上げられたナポリタンをトングで持ち上げ、それを白い楕円形の少しだけ深いお皿に盛り付けた。
そしてもう一つのコンロで作っておいた目玉焼きを上に乗せた。目玉焼きは程よい半熟だ。黄身がオレンジ色に近い濃厚な色をしている。思わず生唾をゴクリ、飲み込んだ。
なんて美味そうなナポリタンなんだ。
「はい、真神くん。五番テーブルお待たせ」ナポリタンの上に乗った半熟の目玉焼きがぷるんと揺れた。
「ありがとうございます、ユミさん」
「うん、お願いね」
受け取ったナポリタンを五番テーブルで待つおじいさんに持っていった。
「お待たせしました。岡崎さん、ナポリタンです」
「ああ、ありがとう。真神君」
岡崎さんはこの喫茶店の常連客の一人だ。ナポリタンが好きでよく注文してくれる。今日もナポリタンだ。
岡崎さんは読んでいた本を閉じて、ナポリタンを見つめる。なかなかナポリタンに手を付けない。
何か考え事があるのか。右手に持つフォークは、いつまでたってもオレンジ色の海に入ろうとしない。
オレンジ色の海に浮かぶ半熟の目玉焼きは無人島のようだ。波も立てず、寂しく浮かんでいる。
岡崎さんは、とうとうフォークを置き「はぁ〜」とため息をついた。
俺はコーヒーを作るマスターに話しかけた。
「岡崎さん、なにかあったんですかね?」
「うーん、そうだね。以前一度だけ、女性と一緒に来たことがあったね。もしかしたらその人のことを考えてるのかもしれないね」
「女性ですか…」
俺はまだその女性を見たことがない。岡崎さんは最愛の奥さんに先立たれて十年ほど独身だと言っていた。俺が岡崎さんと知り合ったのはもちろんここ、「喫茶ペンブローク」だ。
俺がバイト初日で緊張していたところに初めてオーダーを取ったのが岡崎さんだ。岡崎さんは緊張して、もたついている俺を見ても、決して急かさずに笑顔で待っていてくれた。
そのおかげでバイト初日を乗り越えられたと思う。それ以来岡崎さんとは親しくしてもらっている。
「その女性はどんな方なんですか?」
「うん、そうだね。とても美人でおしとやかに見えるね。岡崎さんより一つ年上だそうだよ」ロートからフラスコに落下していくコーヒーを眺めながらマスターは言った。
とても美人でおしとやかな一つ年上の女性か。とても美人なら是非、俺も一度は会ってみたいな。美人は好きだ。俺も男なんでね。
岡崎さんはまだナポリタンを食べようとしない。徐々に冷めていくナポリタンからは出来上がりの頃に比べて湯気の勢いがなくなっていく。
「陽太君。三番。ブレンドお待ち」とマスターがブレンドを出す。
「ありがとうございます」受け取ったブレンドを三番テーブルに持っていった。持って行く途中、岡崎さんのテーブルをチラっと見てみたら、スマホの画面を覗いていた。その顔は少しだけ陰りが差すものの微笑んでいるようにも見えた。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーです」
三番テーブルにブレンドを持っていき、カウンターへ戻って行く途中、再び岡崎さんを
見てみると、ズルズルとナポリタンをすすっていた。
もう悩みは解決したのだろうか?割られた半熟の黄身がトロトロと垂れ、麺に絡んで美味しそうだ。
さっきまでの陰りが無く、晴れやかな表情になっていた。
この店のナポリタンは本当に美味いからな。食べている時だけは、どんな悩みも忘れさせてくれる。美味しい料理にはそういう力があると思う。