08.俺の花嫁※銀夜視点
俺には、人間の匂いはすぐにわかる。
特に、椛からは特別な匂いがして、遠くからでも感じ取れた。
この山に人間がやってくることはまずない。
だから俺には、椛がこの山にやってきた瞬間にわかった。
嗅いだことのない匂いからは、特別な力を感じた。
直感で、姫巫女――もしくはそれに非常に近い存在であると思い、本来ならば近づきたくもない、狼の縄張りがあるほうへと急いだ。
そして、見つけた。
膝から血を流して座り込んでいたのは、まだ若い人間の女。
少し茶色がかったまっすぐの長い髪に、見たことのない変な着物。
どうして突然姫巫女が現れたのか不思議に思ったが、他の奴に捕られる前に、その女をぱくりと咥えて自分の縄張りに走った。
俺の口の中で騒ぎながら暴れられたが、細くて弱々しい人間の肌を傷つけないよう、歯を立てずに咥えていたから、落とす前に縄張りに着くよう、速度を上げた。
そしたら女はおとなしくなった。
うちに着いて女を離し、血が出ている膝を舐めた。
これは、間違いなく〝姫巫女〟だと確信した。
血をひと舐めしただけで、自分の身体が熱くなるのがわかった。
妖力が増すような、不思議な感覚――。
確かにこれは、姫巫女を喰らえばとてつもない力を手に入れられるのかもしれない。
一瞬そう感じたが、俺の目的はそれではない。
だというのに、なにを勘違いしているのか、女は「私を喰べても美味しくない!」と騒ぎ始めた。
俺には人間を喰う趣味はないのだが……。
「もし私を喰べたら、あなたのお腹の中で大暴れしてやるんだから……!!」
元気なのはいいが、どうやら俺はいきなり嫌われてしまったらしい。
「……くぅん」
「え?」
人間の女の扱い方なんて、知らない。
この女は、なぜ俺が自分を喰うと思っているんだ?
……そうか。
〝どろん――〟
「……!」
きっと、俺がいつまでも山犬の姿でいるからだ。
この姿のほうが早く走れるからそうしていたが、人間はあやかしを恐れているのだった。
たとえこの女が姫巫女だとしても、話をするなら同じ〝人の姿〟のほうがいいだろう。
それに気がつき、人の姿になって端的に伝えた。
「おまえを喰う気はない」
「……え?」
「おまえ、名前は?」
「……も、椛」
椛。そうか、いい名前だな。
「俺は銀夜。おまえを俺の嫁にする」
「……え?」
「椛、おまえは俺の花嫁だ」
そう、俺の目的はおまえと結ばれることだ。
決して喰う気はない。
これで安心してくれるだろう。
そう思って率直に伝えた俺の言葉に、なぜか椛は顔をしかめた。
どうやら椛には姫巫女の自覚がないようだった。
椛は人間の世界からやってきたようだが、おそらく向こうは平和なときが流れているのだろう。
だが、どうしてだかあやかしの世界に来てしまったようだ。
俺としては、とても都合がいいことだった。
山神の死後、約五十年のときを経て、鬼が自力でその封印を解いた。
あいつは、絶対に俺の手で封印してみせる。
そのためには、俺が山神になる必要がある。
いくら力が完全に戻っていないとはいえ、鬼はあやかしの中で最強種。
山神と呼ばれるほどの力がなければ、敵わないのだ――。
「――今日はもう、眠ったほうがいい」
「……!」
「おい、玲生……!」
一緒にこっちの世界に来たという幼馴染は、おそらくもう死んでいる。
それを聞いた椛は、泣き崩れた。
「眠らせただけだ。部屋に運んであげるといい」
「……そうだな」
ぼろぼろと泣いている椛を見た玲生が、妖術で彼女を眠らせた。
玲生は妖術が得意だ。俺とは種族が違うが、今は同志として、ともに生活している。
玲生も鬼を憎んでいる。
封印したいと強く思っている。
目的は俺と同じ。
「軽いな……」
椛を部屋で寝かせるため、抱き上げた。
先ほど咥えて走ったときも思ったが、人間はとても弱いのだなと、実感する。
椛は俺たちに比べて筋肉も全然ついていないようで、細いくせにやわらかい。
「よいしょ」
空いていた一部屋に椛を運び、布団を敷いてその上に寝かせた。
相当混乱していたし、疲れているはずだ。
玲生が無理やり眠らせたが、今日はそれでよかったのかもしれない。
椛の寝顔を見つめながら、そう思った。
「……綺麗な顔をしているな」
濡れているまつげに触れて、そのまま涙を拭ってやる。
「……今日はゆっくり眠れよ」
そのまま椛の寝顔を見つめていたら、その場から離れられなくなりそうだった。
「やはり姫巫女には、俺たちあやかしを惹きつける不思議な魅力があるんだな」
危ないところだった。
もし俺より先に他のあやかしに奪われていたら……。
「おまえたちも今夜はもう寝ていいぞ」
『くぅん』
椛を寝かせてから一度外に出て、仲間の山犬たちに声をかけた。
妖力が少なく人の姿になるのが容易でない者は、山犬の姿のまま離れの小屋で過ごしている。
「遅かったね」
それから再び中に戻ると、玲生が意味深な視線を俺に向けた。
「……別に、何もしていないぞ」
「別に何も言ってないけど? それに、銀夜の花嫁にするんだろう? 俺のことは構わなくていいよ」
「…………」
別に構う気もないけどな。
内心でそう思いながら、玲生と共有の場として使っている、少し広めのこの間に腰を下ろす。
「だけど彼女には、姫巫女の自覚が本当にないようだったね」
「ああ……」
「それでも宝玉に力を宿すことはできるのだろうか? それに、鬼を再び封印するには彼女の力が必要不可欠だ」
「……」
「あの程度の傷も自分で治癒できないなんて……。なんとしても、彼女には姫巫女の力に目覚めてもらわなければ――」
「わかってる」
姫巫女には傷を癒やす力があるはずだ。
だから、転んでできたのであろう膝の傷すら治さずにいた椛が、鬼を封印できるほどの力を持っているのか、疑わしいところ。
だが俺にはわかる。
椛は間違いなく姫巫女だ。あいつのそばにいると、俺の血が騒ぐ。
だから、ごちゃごちゃとうるさい玲生を置いて、今夜は俺もさっさと床に就くことにした。
俺は一刻も早く椛と結ばれて、山神にならなければならないんだ。