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戦時改革強行

1942年8月31日。山本総理兼海相は帝国議会に『帝国改革法案』を提出した。





『山本内閣成立以後経済成長を最優先にし重厚長大産業育成を行ったが、大日本帝国はそもそもの構造的問題を抱えていた。それは大きく分類すると農業・財閥・貧富の格差・労働者・社会保障制度の5つであった。順に見ていく。まずは農業についてであった。当時大日本帝国の農地は、半分近くが小作地で多くの農民が地主から農地を借りて耕していた。しかも搾取する地主も少なくないため、小作農は貧しい生活を強いられる事が多かった。そして地主の一部は自らの農地の近くには住まず、大都市で優雅な生活を営む者も少なくなかった。その為にそのような事態が続くようならば、農業の担い手がいなくなり大日本帝国全体の農業生産体制に悪影響が及ぶと判断された。放置を続けるのは主食たる米をはじめとして農作物の不足を招き、農家が社会不安の温床になる事も懸念された。

その為に当初の農地改革案は大日本帝国政府が直々に地主から農地を買い上げ、その農地を小作人に与え[自作農創設]を目的とし、これを押し通す事が最適だと農林省は判断していた。これは農林省としても大日本帝国の産業構造の変化に対応しての策でもあった。というのも当時大日本帝国は山本内閣による重厚長大産業育成による各種工業の発達と土木建設業の拡大により、小作農たちがより多くの収入を求めて職業を転向していったからだ。しかも第二次世界大戦が始まると若者は兵士となり、それ以外の者も軍需生産の計数的と言われる拡大によって軍需工場に吸収されていった。工場の集中する地域(主に都市部)への出稼ぎも、異常なほど増えた。女性も軍需工場や男性のいなくなった職場に必要とされ、農村に残されたのは老人と子供、そして一家の主や跡取りの長だけという有様の場合も少なくなかった。このため農業生産の大幅な減少が起きたが、小作にだけ頼っていた農地は耕す者がいなくなって、酷い場合荒れ地に近い有様にまでなってしまう事になった。農業生産の激減は大日本帝国政府が危惧したほどで、慌てて農機具メーカーに対して耕耘機やトラクターの増産を要請し、それを農村に配った程であった。

その為に当初農林省が構想した自作農ばかりを増やしても、都市部での異業種転換やそもそもの担い手不足、それに伴う高齢化での耕作地放棄が発生すれば将来的な大日本帝国の農業が壊滅的被害を受けると判断された。そこで農林省が新たに構想したのが[大規模自作農・法人化]であった。これにより農村単位で大規模な1つの自作農とし、かつての[地主・小作人]という関係から法人化を行い[社長・社員]という関係にするものであった。これにより個人の農地では無くある種企業の所有地として、担い手不足や高齢化による耕作地放棄が起こりにくいと判断され、そして企業化した場合は各種の労働者に対する法制度を整備する為に、今までのように小作者を不当に扱うわけにもいかず、小作者(社員)も正統な賃金での雇用関係へと変化すると農林省は考えたのである。この新たな構想により自作農創設による農業指導を主な目的にした[農業協同組合]の創設は、大規模自作農・法人化には似つかわしく無いとして創設は白紙撤回された。この新たな構想を山本総理兼海相は採用する事にし、農地改革案としたのである。

そして次は財閥についてである。これは経済機構の改革であり、必要に迫られたと言うよりは国民へのガス抜きのために実施されたと言える。大日本帝国は確かに各種企業が存在したが、財閥と言われる巨大企業体が経済を独占するようになっていた。そして第二次世界大戦勃発で、一部産業の独占体制はさらに強まった。その為に一部国民の不満は高まる事になったが、大日本帝国としては国家・民族としての競争力維持のためにも、超急進派が言うような『財閥の解体』は論外だった。このため法制度を整備することで、今後の企業間競争の健全化を図る事とされた。その1つが『独占禁止法』であった。しかしこれは戦時中という事もあり法自体が強いものではなく、また抜け穴もあったため、当初はあまり実行力はなかった。このため後に国民から不満が出て改訂、強化されていった。一方財閥側も山本内閣への支持は揺るぎ無いものであったが、労働者や国民の不満をかわす名目で、財閥一族や超大株主を経営の第一線から退ける向きを強め、合わせて経営の合理化を進める事を決めた。そして財閥側は政府と商工省を交えて協議を行い、ある種の改革を断行する事になった。それは[財閥]という名称は残しながら創業家一族による同族経営の純粋持株会社から、基幹銀行・総合商社を中心に[グループ]へと体制変更するというものであった。これにより財閥による過度な企業の集中と独占が緩和され、各種産業に新規参入が容易になるという利点があった。しかし重要産業は各種財閥のある種独占というは変わり無く、それが先に記した独占禁止法の改定が行われる理由となった。』

小森菜子著

『帝國の聖戦回顧録』より抜粋

まずは農地改革と財閥改革です。次回に貧富の格差・労働者・社会保障制度の3つの改革を書きます。

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