対策会議3
陸軍マーシャル参謀総長は説明を始めた。前回の対策会議で述べた通り既存のM4戦車は『M1 76mm戦車砲』が早期実用化した為に、製造途中は当然ながら部隊配備中の全M4戦車の主砲換装を行っていると語った。更にはルーズベルト大統領が決断したV号戦車パンターとVI号戦車ティーガーI型の採用決定により、2種類の戦車も大量生産が行われていた。この2種類の戦車を採用した事によりアメリカ合衆国陸軍にもドイツ人技術者のノウハウが伝わり、アメリカ合衆国陸軍が開発中の新型重戦車と駆逐戦車は更に強大なものに再設計されていた。VI号戦車ティーガーI型の能力はロンドン攻防戦で発揮され、大日本帝国陸軍の三四式戦車より高性能だと証明された。これによりアメリカ合衆国陸軍機甲師団の現在での配備は、M4戦車・V号戦車パンター・VI号戦車ティーガーI型の3種類という事になったのである。
陸戦でも強力になった事が分かったルーズベルト大統領は、航空機について尋ねた。陸軍航空軍アーノルド司令官は新型機の開発を完了し現在大量生産を行っていると語った。新型機はエンジンを陸軍海軍で共有化する事にした為に、プラットアンドホイットニーが開発したR-2800ダブルワスプエンジンを使用し戦闘機P-51ムスタングとP-63キングコブラの2種類が大量生産体制に入り、長距離爆撃機としてB-25とB-26の2種類が大量生産体制に入ったと語ったのである。一気に4種類も新型機が完成し、航空機の性能では大日本帝国に迫る事が可能になったとも説明した。更にアメリカ合衆国が航空機開発に力を入れていなかった結果、完全に出遅れたジェット戦闘機開発もフランス陸軍航空隊のジェット戦闘機Me262を購入する事で、技術交流も開始し国産ジェット戦闘機開発を開始したと語ったのである。それを聞きルーズベルト大統領は安堵の表情を浮かべた。世界初のジェット戦闘機は大日本帝国となり、世界初の実戦使用はフランスとなり、アメリカ合衆国は圧倒的に出遅れていたがようやくスタートラインには立つことが出来たのである。
だがアーノルド司令官はB-29とB-36は機体・エンジン共に開発が難航していると語った。両機種共に大日本帝国と大英帝国を戦略爆撃する為の機体だが、かつてない超長距離を飛行しないといけない為に要求する機体性能が尋常では無かった。その為にいくらアメリカ合衆国といえども簡単に開発出来る代物では無かったのである。新型の戦略爆撃機が難航していると聞いたルーズベルト大統領は残念そうに語ったが、海軍のクイーン作戦部長が軍部を代表してルーズベルト大統領にある進言を行った。
『1942年8月25日に行われたアメリカ合衆国ホワイトハウスでの対策会議は、ある意味で歴史的なものになった。核兵器開発が決定されたからである。アメリカ合衆国では第二次世界大戦開戦前から次世代艦艇動力として原子力が研究されていた。そしてその研究は政府としても行う事をルーズベルト大統領は決定し[S-1ウラン委員会]を設置した。そしてS-1ウラン委員会はルーズベルト大統領宛の報告書を作成し、その中で潜水艦の動力源として核分裂反応の更なる研究を行う事を報告すると共に、「もしその(ウランの)反応が爆発性のものならば、既知のどんなものと比べてもはるかに大きな破壊力をもった爆弾になろう」と付け加えていた。そしてS-1ウラン委員会は合衆国防衛研究委員会 (NDRC) に対して、ウランと当時発見されたばかりのプルトニウムの研究に16万7000ドルの支出を要求したのである。それにルーズベルト大統領は大いに興味を示し、更なる資金提供と研究が行われる事になった。そしてその後S-1ウラン委員会と合衆国防衛研究委員会は合同でウランとプルトニウムについて全米の大学と科学者も総動員しての研究を開始した。そしてその研究の結果発電所や艦艇動力としてのみでは無く、ウラン爆弾の実現可能性が示されたのである。その報告は軍部に提出され、1942年8月25日のホワイトハウスでの対策会議で海軍のクイーン作戦部長が代表してルーズベルト大統領に進言したのである。そしてその報告を聞いたルーズベルト大統領は、核兵器開発プロジェクトを承認した。海軍のクイーン作戦部長が代表して報告したがルーズベルトはプロジェクトの管轄を、海軍ではなく大規模なプラント建設に慣れている陸軍に行わせた。マーシャル参謀総長としてはクイーン作戦部長に遠慮して、管轄は海軍にと応えたがクイーン作戦部長が今や管轄にいちいち拘っている事態では無いと断り、陸軍管轄に落ち着いた。
そして正式に核兵器開発が開始され当初の本部がニューヨークのマンハッタンに置かれていた為に、一般に軍が工区名をつける際のやり方に倣って[マンハッタンプロジェクト]と呼ばれる事になったのである。』
小森菜子著
『欧州の聖戦』より一部抜粋