大英帝国の落日
1972年7月1日にイタリア王国に到着した大英帝国向けの軍事援助は、大日本帝国の百式輸送機により大規模な空輸が行われ運び込まれていた。大西洋への出入り口であるジブラルタル海峡がフランスに占領され、直接大英帝国まで輸送船団が迎えない事による措置であった。その為に大日本帝国海軍航空隊第5航空艦隊の操縦士達を、百式輸送機によりイタリア王国に大挙して輸送し百式輸送機を操縦させて大英帝国への大規模空輸作戦を開始した。百式輸送機には三四式戦車・41式機関短銃マンドリン・軍用トラックが積み込まれ、陣風艦上戦闘機は操縦士が直接操縦して大英帝国に向かった。イタリア王国から大英帝国に向かう時は直接操縦して送り届ける陣風艦上戦闘機で百式輸送機も護衛し大英帝国に到着すると、陣風艦上戦闘機は機体その物を引き渡し百式輸送機からは三四式戦車・41式機関短銃マンドリン・軍用トラックが下ろされた。そして陣風艦上戦闘機を操縦していた操縦士達は百式輸送機に乗り込み、大英帝国からの対価である工作機械も積み込まれた。そして大英帝国を飛び立った百式輸送機はヨーロッパ大陸上空までは大英帝国に駐留を続ける海軍航空隊第11航空艦隊が護衛を行い、そこからはイタリア王国に駐留を続ける陸軍航空隊第3飛行師団が迎えに来ており帰路を護衛する事になった。そして1カ月の間にイタリア王国から大英帝国への大規模空輸作戦は3回行われ、三四式戦車280輌・41式機関短銃マンドリン2万丁・陣風艦上戦闘機400機・軍用トラック440輌が送り届けられた。イタリア王国にもほぼ同数が届けられていたが、何と言っても最大の問題点は大日本帝国との距離であった。それに大日本帝国での生産建造時間を考えると、即時の支援は難しかった。しかしそれでも大英帝国とイタリア王国の窮状を考えると、全く支援が無いのとあるのでは大きな違いであった。
イタリア王国は北部国境にあるアルプス山脈をイタリア王国陸軍の山岳師団とイタリア王国空軍により守り通していた。山岳師団には41式機関短銃マンドリンが配備され、空軍は陣風艦上戦闘機を装備し戦力は大幅に向上していた。そしてポー平原に展開する機甲師団も大日本帝国からの三四式戦車を配備し、万が一アルプス山脈突破を許しても万全の態勢を整えていたのである。だが大英帝国は大日本帝国の支援を受けても状況は悪いものであった。大英帝国の誇る王立海軍は結局はフランス海軍潜水艦の包囲網を突破出来ず、スカパフローに閉じ込められ続け戦力になり得なかった。フランス・オランダ陸軍航空隊による航空撃滅戦は、大日本帝国海軍航空隊第11航空艦隊の活躍により阻止されたがフランス・オランダ陸軍は未だに大英帝国本土に存在し続けていた。しかも大英帝国王立空軍や大日本帝国海軍航空隊第11航空艦隊の隙を突く形で、夜間にノルマンディー半島からイギリス海峡を渡り陸軍部隊の増援を派遣していた。それによりフランス陸軍は第5総軍を、オランダ陸軍も第16方面軍を全て派遣する事に成功した。大英帝国陸軍との戦闘で消耗した部隊も増援を送り込み、定数も満たしていた。その為に遂にはロンドン近郊にまで侵攻を受ける事になり、チャーチルは王室をエディンバラ城に避難して頂く事にし、政府もグラスゴーに移転させた。大日本帝国海軍航空隊第11航空艦隊もグラスゴー近郊の空軍基地に移転してもらい、同盟国への配慮をみせた形であった。
そして1942年8月1日。フランス・オランダ陸軍によるロンドン侵攻作戦が開始されたのである。遂に世界に冠たる大英帝国の帝都に対して総攻撃が開始される事になってしまった。大英帝国も陸軍を機械化歩兵10個・機甲師団5個、を展開させて迎撃体制を整えていた。大日本帝国からの軍事援助である三四式戦車と41式機関短銃マンドリンを配備しており、戦闘力は向上している筈であった。しかしフランス陸軍と航空隊は新型戦車と新型戦闘機を投入してきたのだ。