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弾丸列車

1942年7月5日。山本総理兼海相以下、山本内閣全員が静岡県浜名郡神久呂村を訪れていた。訪れた理由は1938年に決定された通称『弾丸列車計画』の試運転線視察であった。





『山本内閣成立直後の1937年(昭和13年)8月2日に大日本帝国国有鉄道を運営していた鉄道省内部に[鉄道幹線調査分科会]が設立され、鉄道の輸送力強化に関する調査研究が開始された。そして同年9月12日には[鉄道幹線調査会]が勅令をもって設立され、輸送力拡大のための方策が具体的に検討されるようになり、同年11月に結論として早期に同区間に別線の高規格鉄道を敷くことが必要であるということになった。鉄道省の用語では、広軌による幹線として[広軌幹線]という言葉でこの計画を呼んでいたが、新聞など世間一般では弾丸のように速い列車であるという形容として[弾丸列車]という語が使われた。また、「新しい幹線」という意味で「新幹線」という語の使用も当時の公式資料中には書かれており、弾丸列車計画完了以後は新幹線の名称が官民で使われる事になった。

そして弾丸列車計画当初は他の路線と直通できることから1067ミリの狭軌新線を敷く案が有力であったが、大陸の鉄道である南満州鉄道や朝鮮総督府鉄道(弾丸列車計画始動時の名称であり、1940年10月5日に帝国議会に於いて朝鮮半島及び台湾・樺太本土昇格に関する法律の成立により朝鮮半島も大日本帝国本土になって以後は、大日本帝国国有鉄道に統合)が1435ミリの標準軌を採用していたことから、それとの貨客直通を図れる方が軍事輸送の面などからしても有利なこと、標準軌を使用すれば高速運転ができるなどの理由もあり、双方が電化・非電化(蒸気機関車)も含めて比較検討された。そして比較検討の結果電化方式を採用する事になり、1937年12月15日に鉄道省が[東京・下関間新幹線建設基準]を制定し、翌年の1938年1月25日に帝国議会に於いて[広軌新型幹線鉄道計画]が承認され、遅くとも1945年(昭和20年)までに開通させることを目標としつつも5カ年計画で総予算10億8900万円をかけて建設を行うことが決定し、これに基づき用地買収・工事が開始される事になったのである。

広軌新型幹線鉄道計画は通称弾丸列車を建設するのと同時に、大日本帝国の既存鉄道を1435ミリの標準軌に拡大する計画であった。既存鉄道は大日本帝国国有鉄道のみならず全国の私鉄も政府の資金により拡大する計画だった。そもそも弾丸列車計画も山本総理兼海相による民間生活向上の一環であった。移動を行いやすくする事により経済の活性化を図り、更に鉄道を標準軌にする事により鉄道輸送の効率化と輸送重量拡大を図るものであった。その為に狭軌から標準軌への拡大工事が行われるのと共に、主要路線は電化工事も行われた。そんな中で弾丸列車計画は東京〜下関間に984.4キロに及ぶ、在来線とは別の複線新線を敷設するというものであった。在来線と必ずしも並行せずに出来るだけ直線で敷設する事になり、計画立案当時の同区間在来線営業キロの1097.1キロに比べて約100キロ程短縮されていた。そして長距離高速列車を集中運転する事にし、旅客列車は東京〜大阪間を4時間30分、東京〜下関間を9時間で結ぶことを目標としたのである。これは当時の他の大日本帝国国有鉄道の車輌では、東京〜大阪は最速列車で8時間、東京下関間は18時間半を要したのに対して大幅に速い到着であった。

そして運行本数は東京〜大阪間には42本、大阪〜下関間に39本の旅客列車を設定しており当時の東京〜大阪間直通定期旅客列車は24本、大阪〜下関間は18本であったのに比べて、運行本数も増やされていた。貨物列車は東京〜大阪間20本、大阪〜下関間18本の設定であった。最高速度は新型の新幹線電車を開発して運用する事から、時速185キロとされた。当時の在来線最高は時速95キロであり、倍近い速さになったのである。そして高速運用が前提である為に、旅客駅数は18に限るとされた。旅客駅は、東京・横浜・小田原・熱海・沼津・静岡・浜松・豊橋・名古屋・京都・大阪・神戸・姫路・岡山・尾道・広島・徳山・小郡・下関となる。幹線道路とその他の道路とは完全に立体交差とし、新幹線の路線は在来線とも共用しない独立した専用路線として建設される事になった。そしてそのような全路線完全電車運用で高速運用する電車は、当時の大日本帝国にとっては未経験であり、また当然ながら軌間・車両限界・建築限界の規格を満たす大日本帝国国有鉄道在来線は皆無である為に、浜名湖と佐鳴湖に挟まれた浜名郡神久呂村(現在の浜松市中央区)に1周全長16キロ・最大勾配8パーミル・最小曲線半径1500メートルの楕円型の試運転線と、同線と浜松工場を結ぶ5キロの線路が計画された。そこに1942年7月5日、山本内閣は視察に訪れたのである。』

小森菜子著

『帝國の聖戦回顧録』より抜粋




視察に訪れた山本総理兼海相以下閣僚達を、大日本帝国国有鉄道総裁が直々に案内した。そして案内された試運転線には新型の新幹線が止まっていたのである。航空機に範をとった丸みのある先頭形状と、青・白塗り分けのスマートかつ愛嬌のある外観を備えたモダンな車両であり、南満州鉄道が運用する『あじあ号』とはまた違った印象を与えていた。その特徴的な先頭形状を見た山本総理兼海相が「団子鼻みたいだな」と呟いたのを聞いた国鉄総裁は、それを気に入り以後新幹線の特徴として称されるようになった。

試運転線の新幹線に乗り込み走行する事になったが、その速さに閣僚達は一様に驚いた。岸信介商工大臣は、これは経済活性化の起爆剤になると大喜びであった。新幹線路線は用地買収から建設を僅か5年で行う計画となったが、買収費用は破格の値段を提示した為に即座に買収していった。建設も順調であり小松製作所や神戸製鋼所の製造する建設機械により、建設速度も早かった。その為に予定通り来年には全線開通が可能となっていた。更に将来的には対馬海峡に海底トンネルを掘削し、満洲帝国の首都新京や中華民国の北京までの直通列車を走らせるという計画や、大東亜共栄圏構想に基いて他にもインドやインドシナへの鉄道敷設や、シベリア鉄道に代わるアジアからヨーロッパまでの鉄道敷設を目指した『中央アジア横断鉄道計画』なるものも構想されていた。戦時中の為に新幹線路線建設は大日本帝国本土のみとなるが、その他の計画は戦後には行うように調整していた。

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