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大規模軍事援助

1942年7月1日。大日本帝国からの大規模な軍事援助がイタリア王国に到着した。1942年5月7日に大日本帝国から大規模軍事援助を提起されたが、その対価は中々の規模であった。だがイタリア王国と大英帝国は共にその対価を議会で正式に受け入れる事を決定し大日本帝国に通達。それを受けて大日本帝国は大規模軍事援助を1942年5月20日に帝国議会で可決し実行する事になった。その為に大日本帝国の各財閥傘下の軍需企業が大量生産した各種兵器が輸送船団に積み込まれイタリア王国を目指す事になった。それに加えて山本総理兼海相の決断により戦時艦船急速建造計画で建造する駆逐艦松級もイタリア王国へ提供する事になり、建造が完了した20隻が輸送船団に随伴してイタリア王国に辿り着いた。輸送船団は大日本帝国が開戦以後建造した戦標船(戦時標準船)にて編成され、陣風艦上戦闘機・三四式戦車・41式機関短銃マンドリン・軍用トラック等が大量に積み込まれていた。その為に一部の輸送船団毎イタリア王国に貸与する物であった。海軍航空隊第5航空艦隊の操縦士達も、百式輸送機によりイタリア王国に大挙して輸送される事になった。その第5航空艦隊の操縦士達はイタリア王国から大英帝国に航空機を操縦して移送する為の人員であった。イタリア王国までの海路はアラビア半島打通作戦によりスエズ運河まで解放され、地中海の出入り口を確保出来た為に通じていたが大英帝国本土への海路は未だに確保出来ていなかった。その為に大英帝国政府は現時点では戦標船や駆逐艦の貸与は辞退し、それ以外の軍需物資を求めた。その為に大英帝国用の軍需物資輸送船団もイタリア王国に送り込まれ、イタリア王国から大英帝国へは百式輸送機に搭載されて大英帝国を目指す事になった。三四式戦車も1輌なら百式輸送機に搭載する事が出来るこその大規模空輸作戦だった。

大日本帝国は今回の1回目の大規模軍事援助に総額20億円の軍需物資を貸与する事になっていた。1942年度一般会計予算の1割以上もの大規模な軍事援助になった。中華民国への軍事援助は旧式兵器の無償提供であった為に使い回しで済んだが、今回は製造したばかりの新兵器を貸与する事になっていた。大日本帝国国営放送のTHK(帝国放送協会)はラジオ放送で同盟国への兵器貸与だと大々的に報じていたが、国営放送だからこそ出来た情報操作であった。山本総理兼海相以下閣僚達全員は対価を貰うことにより、事実上譲渡だと認識していた。軍事援助の一部は低金利の後払いで代金を支払い、更には対価として大英帝国政府には中東での油田開発・各地の植民地の施設港湾の使用と各種サービス・東南アジア植民地の独立による大東亜共栄圏成立の承認・工作機械との等価交換、イタリア王国政府にも植民地の施設港湾の使用と各種サービスを求めるものであったが、ある意味で『低金利の後払いで代金の支払い』は有名無実化させる前提で記されていたものであった。

大英帝国は中東での油田開発をBBCの海外放送で大々的に発表し、大日本帝国は帝国石油会社を派遣し油田開発を開始していた。そして各地の植民地の施設港湾の使用と各種サービス提供を行う事になったが大英帝国は、その協約の1つとしてインド洋のディエゴガルシア島を大日本帝国に無償譲渡すると発表したのである。その発表を受けて大日本帝国はディエゴガルシア島を領有する事になり、港湾施設と飛行場を造成し重要な中継基地を入手する事になった。工作機械は大日本帝国が百式輸送機で輸送した帰りの機体に搭載し、等価交換する事になっていた。東南アジア植民地の独立による大東亜共栄圏成立の承認も大英帝国は決定し、戦争終結後に東南アジア植民地は全て独立させる事になった。しかもオーストラリアとニュージーランドも独立させる事になるという、大英帝国のまさに歴史的転換点になった。イタリア王国も植民地の施設港湾の使用と各種サービスを求められ全ての植民地で大日本帝国は無償で補給整備を受けれる事になった。

このように大日本帝国は凄まじい対価を得ることに成功したが、逆に凄まじい軍事援助を行う事になっていた。それを可能にしたのは山本内閣成立以後の重厚長大産業育成による、経済成長の成果であった。粗鋼生産量は開戦前の1941年に2000万トンを超える数値を記録し、GDPは1000億円(1ドル=2円であり500億ドル)を突破していた。それに対してアメリカ合衆国は粗鋼生産量3980万トン、GDPは1014億ドルであった。そして開戦からの大日本帝国政府による臨時軍事費としての戦争経済遂行は、大日本帝国にある種の経済成長をもたらしていた。それは開戦から僅か半年しか経過していないにも関わらず、経済成長率は25パーセント以上にも及んでいた。もちろん名目GDPの伸びなので、国民がそのまま裕福さを実感できないし、生産したもののほとんどが戦争に浪費されていた為、数字ほど豊かになったわけではない。大日本帝国のGDPの伸びは、巨大な軍隊を具現化したに過ぎないのであった。しかも驚くべき事に現時点で世界第2位の経済力を有するのは、大日本帝国であったのである。大英帝国はフランスとオランダによる本土侵攻を受け本土経済は危機的状況であり、ヨーロッパ大陸を制圧したフランスとオランダであったが自分達が侵攻する時にヨーロッパ各地を荒廃させた事により経済は混乱していた。(作者注:皆様お忘れかもしれませんが、ソビエト連邦は崩壊しロシアの大地は内戦状態です。)

その為に自動的に世界第2位の経済力を誇る事になったが本土を攻撃される事の無い、というのが最大の利点であった。大日本帝国の方針により満洲帝国と中華民国も工業化に力を入れ、重厚長大産業を発展させていた。中華民国はまだ時間はかかるが、満洲帝国は大日本帝国を補完するには十分な経済力であった。現時点では満洲帝国は大日本帝国の保護国であった為に、満洲帝国の経済力を合算すればアメリカ合衆国に更に近付く規模になっていた。重厚長大産業の指標とされる粗鋼生産力も僅か半年で大日本帝国は2800万トンにまで発展させ、満洲帝国と合算すれば3800万トンという数字になった。アメリカ合衆国も3980万トンから5000万トンという圧倒的な数字を記録していた。大日本帝国は重厚長大産業の育成が遅れており新興工業国であったが1932年の八幡製鉄所の拡張、1934年の広畑製鉄所の全面操業で粗鋼生産量は拡大していた。そして1937年の山本内閣成立による重厚長大産業育成が最優先で行われ、製鉄所拡張は大規模に行われた。大阪の堺、千葉の君津の大規模な埋め立て造成が実施され、そこに巨大な鉄鋼コンビナートの建設が実施された。これは『重厚長大産業育成計画』によって計画されたもので、一気に粗鋼生産量を拡大する為の施設だった。また三重の四日市、岡山の水島には、同じく埋め立て地を作り製鉄所と少し遅れて石油化学コンビナートの建設が開始された。二つの科学石油コンビナートは航空機を大量に運用する必要のある大日本帝国にとっては必要不可欠であった。


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