第21回衆議院議員総選挙
1942年5月30日。大日本帝国に於いて帝国議会衆議院議員総選挙が行われた。
『本来の衆議院議員の任期は1941年4月29日であり、総選挙も1941年4月30日に行われる筈であった。だが1940年10月5日に帝国議会に於いて[朝鮮半島及び台湾・樺太本土昇格に関する法律]の成立、1920年(大正9年)5月3日に出された大正9年勅令第124号[樺太に施行する法律の特例に関する件]の廃止、[徴兵制]の改正により朝鮮半島・台湾・樺太からも選抜徴兵制が行われる事、[衆議院議員選挙法]が改正されて朝鮮半島と台湾・樺太住民にも衆議院選挙の選挙権が認められる事、[衆議院議員の任期延長に関する法律]の時限立法としての成立により1937年の前回総選挙で選出された衆議院議員の任期は1941年から1年1 カ月延長の臨時措置が行われる事、等々により衆議院議員総選挙は延期される事になった。。順に解説していく。
まずは[朝鮮半島及び台湾・樺太本土昇格に関する法律]であるが、この法律により朝鮮半島と台湾・樺太にも大日本帝国憲法が適応され全てに於いて大日本帝国本土と同等の扱いを受ける事になったのである。大正9年勅令第124号[樺太に施行する法律の特例に関する件]も廃止により樺太は完全に大日本帝国本土と同じ扱いになり、これにより全てに於いて完全に朝鮮半島・台湾・樺太は大日本帝国への併合が完成した事になったのである。全ての義務と権利を本土の大日本帝国臣民と同列にしたのである。これにより統計数字に於ける大日本帝国の国力は増大する事になったのである。
そして[徴兵制]も改正され朝鮮半島と台湾・樺太からも選抜徴兵される事になり、大日本帝国陸軍海軍への統計数字に於ける徴兵可能人口増大に寄与する事になった。
[衆議院議員選挙法]が改正されて朝鮮半島と台湾・樺太・得撫島以北の千島列島・小笠原島・新南群島(作者注:現在の南沙諸島であり、史実と同じく1939年から台湾高雄州高雄市に編入。)住民にも衆議院選挙の選挙権が認められる事になった。1935年にも衆議院議員選挙法は改正されており、男性に続き女性にも25歳以上の大日本帝国本土居住者に選挙権が与えられていた。それが1940年の衆議院議員選挙法改正により名実共に、朝鮮半島・台湾・樺太の男女にも選挙権が与えられ有権者数も増大する事になった。そしてこの衆議院議員選挙法改正により朝鮮半島・台湾・樺太の住民が選挙権を得た事が[衆議院議員の任期延長に関する法律]の時限立法としての成立により、1937年の前回総選挙で選出された衆議院議員の任期は1941年から1年1カ月延長の臨時措置が行われる事になった理由であった。選挙権を得たという衆議院議員選挙法改正の公布と施行を発表し、朝鮮半島・台湾・樺太の選挙区の区割り、各政党の立候補者擁立等を行うのに時間が必要との判断から、1937年の前回総選挙で選出された衆議院議員の任期に限定する時限立法として制定された。
そして1942年5月30日。大日本帝国に於いて朝鮮半島・台湾・樺太も含めた、帝国議会衆議院議員総選挙が行われたのである。このようにかつては併合した地域でさえも大日本帝国は本土と同列に扱う事にし、以後大日本帝国を構成する地方自治体に変わったのである。そこに住む人々の民族的文化的独自性が失われた訳では無かった。その為にかつて西洋の歴史学者が古代ローマ時代の同盟者戦役を終結させる事になる、ユリウス市民権法を説明する時に「ローマ人が人類に教えた事の1つは、各地方の独自性は保持しながらも、全体を統一する普遍性の確立は可能であると示した点であった。」と述べている。それを知った私は東洋人でありながら、かつて西洋に君臨した一大帝国であるローマ人の後継者は大日本帝国ではなかろうか、と思ったのである。
ちなみに国際連盟からの委任統治領であった南洋諸島は、第二次世界大戦後の1948年に大日本帝国に正式に併合され、同年に衆議院議員選挙法が改正され選挙権を得る事になった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より抜粋
中選挙区制による第21回衆議院議員総選挙は北海道から沖縄県までの全国に1選挙区の定数を1人~5人とする125選挙区が設定され総定数は469人となり、更に新たな選挙区として樺太が3人(3人区1つ)、朝鮮半島が23人(3人区1つ、2人区7つ、1人区5つ)、台湾が5人(1人区5つ)とされ、大日本帝国全土に於いては合計144選挙区の総定数500議席となった。そんな状況で山本総理兼海相が総裁を務める『旭日尊皇党』が過半数以上となる310議席を獲得した。そして立憲政友会と立憲民政党が合流して成立した『立憲政治同盟』は90議席と大敗した。第三党には『社会大衆党』が24議席を獲得し、残る76議席は『昭和会』19議席、『国民同盟』11議席、『東方会』11議席、『諸派』9議席、無所属26議席となった。山本総理兼海相が総裁を務める旭日尊皇党が大勝利した理由は、内閣成立から戦争に備えるという意味も込めて行った重厚長大産業育成が大日本帝国全体の経済成長に繋がり、目に見える形で国民生活が向上していたからである。しかも旭日尊皇党は第21回衆議院議員総選挙の公示日前日の1942年5月3日に、山本総理兼海相が突如として発表し結党されたものであった。その為に現役の海軍大将が党総裁を務める異例の政党になり、しかも東條陸相も旭日尊皇党副総裁に就任していた。党としては急造であるが山本内閣閣僚も全員が旭日尊皇党に入党し、候補者擁立も極秘裏に進められていた。海相陸相が党の顔である為に軍部も全面的に支持し、山本内閣の経済政策を評価し立憲政友会と立憲民政党支持であった各財閥も旭日尊皇党支持に回った。これに危機感を強めた立憲政友会と立憲民政党は合流し立憲政治同盟を結党したが、選挙結果は惨敗であったのである。立憲政治同盟としては山本内閣の議会運営を支えてきたという自負があったが、ある種裏切りに近い形で選挙に惨敗してしまった。政治学者はこの山本総理兼海相による新党結成を、既存政党への国民の不信感が高まった結果だと断定していた。軍人である山本総理兼海相が率いる内閣は、これまでの政党以上に大日本帝国を成長させた事は動かし難い事実であり、それを国民は支持した。しかも軍部・各財閥が支持するとなるとそれは圧倒的有利に働くのである。この第21回衆議院議員総選挙の圧勝を皮切りに、旭日尊皇党は20世紀末まで議席は増減させながらも大日本帝国の過半数以上を維持する与党であり続けるのである。
史実では『衆議院議員の任期延長に関する法律』は時限立法では無かった為に1954年(昭和29年)5月1日に公布され即日施行された『自治庁関係法令の整理に関する法律』により廃止されるまで、法律としては存続していました。
そしてこの小説の世界線ではナチスドイツが存在しないので、ファシズムに感化される事が無いので大政翼賛会は存在しません。イタリア王国との軍事同盟も1941年7月に『日英伊三国軍事同盟』成立によるものです。ですが既存政党への不信感はあるとして、架空の新党である旭日尊皇党を作りました。
その結果、立憲政友会と立憲民政党が合流する事態にもなってます。