アラビア半島打通作戦3
『石原莞爾中将率いる大日本帝国陸軍第1方面軍は、快進撃を続けていた。アラビア半島打通作戦は順調に推移しており、1942年4月28日にはサウジアラビアの首都リヤドを解放する事に成功していた。ペルシャ湾沿岸地域からもフランス・オランダ陸軍を叩き出し、一気にサウジアラビア東部地域までが解放されていた。首都リヤドに幽閉されていたサウジアラビア王家も解放する事に成功し、石原莞爾中将以下第1方面軍はサウジアラビア王家から勲章を授与されたのである。その快進撃はペルシャ湾に展開する大日本帝国海軍連合艦隊機動艦隊の支援の下に成し遂げられており、連合艦隊機動艦隊の航空隊は陸軍第1方面軍の上空に絶対的な制空権を確立していた。フランス・オランダ陸軍航空隊が何とか空襲を仕掛けようとしたが、その試みは海軍連合艦隊機動艦隊の航空隊により完璧に阻止されたのである。
そして陸軍第1方面軍の進行は続き、遂には大英帝国委任統治領パレスチナを解放するに至った。これにより大日本帝国陸軍は地中海沿岸にその足跡を記す事になったのである。大英帝国委任統治領イラクも解放され、フランス委任統治領のシリア・レバノンも占領する事に成功していた。トルコとイランは中立を表明しており、ロシアの大地は内戦状態であり北・東・南と三方向は安泰であった。そして1942年5月15日。大日本帝国陸軍第1方面軍はスエズ運河に展開する大英帝国陸軍と合流するべく、スエズ運河東方50キロ地点に展開するフランス・オランダ陸軍に対して総攻撃を開始したのであった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より抜粋
第1方面軍司令官の石原莞爾中将は、全将兵を集めて演説を行っていた。石原司令官はまずは第3軍の第1戦車師団と第2戦車師団、第3戦車師団に対して、努力と熱意を労った。石原司令官が一緒に遠征して来た第3戦車師団は三四式戦車を装備していたが、先に第1方面軍として展開していた第3軍の戦車師団は九五式戦車を装備していた。本来の計画なら輸送船団によって運び込まれた三四式戦車に第3軍は更新し訓練を行う筈であった。だが大日本帝国陸軍参謀本部幕僚附(作戦課)参謀の瀬島龍三少佐がフランス・オランダ陸軍に対して反撃の機会を逃すと強く進言し、増援到着から即座にアラビア半島打通作戦を実行する事になったのである。その為に石原司令官は三四式戦車を装備する第3戦車師団を先頭にし、アラビア半島打通作戦を実行してきた。そして三四式戦車の性能が圧倒的に優れている事が証明され、石原司令官は第1戦車師団と第2戦車師団の三四式戦車に更新した訓練を実戦で行う事にした。当初は困惑していた第1戦車師団と第2戦車師団の将兵達も、三四式戦車の性能によりフランス・オランダ陸軍との戦闘は完勝する事が出来た。そしてアラビア半島一帯を解放する頃には、実戦経験に於いて三四式戦車を見事に乗りこなす事を成し遂げたのである。
石原司令官は自動車化歩兵師団の将兵達にも、その活躍を労った。
一〇〇式機関短銃という新たな兵器に於いて、フランス・オランダ陸軍を弾幕で圧倒する事が可能になり、更に軍用トラックによる移動で機動性も飛躍的に向上していた。それに加えて石原司令官は本土では新型の41式機関短銃マンドリンの量産が行われており、更に戦闘力は向上されると語った。そして今から開始する総攻撃がアラビア半島打通作戦の締め括りになり、中東一帯を解放する最後の一手になると力説したのである。総攻撃を完勝で終わらせ、世界に大日本帝国陸軍の名を轟かせようではないか、と石原司令官が宣言すると付き従ってきた将兵達は大歓声を挙げたのである。そして石原司令官の総攻撃開始の命令により、大日本帝国陸軍第1方面軍はフランス・オランダ陸軍に対して猛攻を開始したのであった。