T34ショック
1942年4月25日。アメリカ合衆国首都ワシントンDCのホワイトハウスでは、ルーズベルト大統領が緊急対策会議を開催していた。その議題はアラビア半島での戦いに投入された、大日本帝国陸軍の新型戦車についてであった。この新型戦車はアメリカ合衆国にとっては、完全に予想外の代物であった。マーシャル陸軍参謀総長は大日本帝国陸軍の戦車を『ブリキ戦車』だと酷評しており、M3戦車とM4戦車で十分に対抗する事が出来ると判断していたのだ。だが大日本帝国陸軍の投入してきた新型戦車はフランス陸軍のIV号戦車と、アメリカ合衆国がレンドリースを行った先行量産型M4戦車を蹂躙したのである。
その戦いは一方的で大日本帝国陸軍の新型戦車は距離1500メートルから、IV号戦車とM4戦車の砲塔正面を貫通していた。それに対してIV号戦車とM4戦車は距離500メートルからでも貫通出来ず、大日本帝国陸軍の新型戦車の側面や後方に回り込もうにも、IV号戦車は最大速度40キロでM4戦車に至っては最大速度38キロであり、新型戦車は50キロは出していたと報告がありその戦法も無理であったのだ。攻撃力もIV号戦車とM4戦車は75ミリ砲であるが、装甲貫徹能力から推測されたのは長砲身85ミリ砲であった。走攻守全ての面に於いて大日本帝国陸軍の新型戦車は勝っており、大日本帝国の国営放送である帝国放送協会(THK)の海外向け放送から新型戦車の名前が三四式戦車と判明し、アメリカ合衆国陸軍はType34Tankに衝撃を受けたとして、『T34ショック』とこの一連の事態を名付けた。そのT34ショックはルーズベルト大統領にも伝えられ、今回の緊急対策会議招集に繋がったのである。
ルーズベルト大統領はマーシャル陸軍参謀総長に、大日本帝国陸軍の新型戦車に対抗する術はあるのか尋ねた。航空機のみならず戦車でも負けてしまった事に、ルーズベルト大統領は非常に苛立っていた。マーシャル陸軍参謀総長は現在開発中の駆逐戦車を加速させると共に、新型重戦車の開発を行う事を決定したと語った。当時アメリカ合衆国陸軍の戦車に与えられていた使命は歩兵を支援して陣地を突破することであり、敵戦車に対しては軽快で強力な砲を持つ駆逐戦車をあてることを基本としていた。このためアメリカ合衆国陸軍がT34ショック前に計画していた重戦車は歩兵戦車的な代物しかなく、しかも陸軍地上軍管理本部の極端な兵器統一思想により新型の開発に対しても消極的であった。それをマーシャル陸軍参謀総長は危機的状況にあるとして、対戦車戦を重視した重戦車開発を行うと決めたのである。そのマーシャル陸軍参謀総長の決定に陸軍地上軍管理本部も賛同し、早期の計画始動を決めたのであった。それだけT34ショックがアメリカ合衆国陸軍に与えた衝撃の大きさを物語っていた。
ルーズベルト大統領は既存のM4戦車はどうするか尋ねた。マーシャル陸軍参謀総長は現在開発中の『M1 76mm戦車砲』を早期実用化しM4戦車の主砲を換装すると説明した。 1ミリしか増大していないが、威力は格段に向上する見込みであり新型重戦車の開発までのつなぎとしては十分だとマーシャル陸軍参謀総長は語った。それを聞いたルーズベルト大統領は予算はこの際気にする事無く、全てを進めるように断言した。また新型航空機開発を含めた全ての新兵器開発に更に予算を増額する事を決定し、何としても大日本帝国に負けないようにする事を厳しく命令したのである。それにそろそろフランスとオランダが泣き付いてくる頃だとも語った。ルーズベルト大統領は新型重戦車や新型航空機は開発出来次第量産を開始し、レンドリースに加える事を宣言したのである。
そしてそこまで語った所で秘書官が、フランス大統領から緊急連絡が入ったと伝えた。ルーズベルト大統領はマーシャル陸軍参謀総長に早急に行動を開始するように言うと、秘匿通信回線によるフランス大統領との通話を行う事にしたのであった。




