アラビア半島打通作戦
1942年4月20日。大日本帝国陸軍によるアラビア半島打通作戦が開始された。
『大日本帝国本土から三四式戦車と一〇〇式機関短銃を装備した部隊は、1942年4月18日に大英帝国保護国オマーンへと到着した。増援としては2個自動車化歩兵師団と1個戦車師団であり、残る輸送船団には三四式戦車と一〇〇式機関短銃が大量に輸送されていた。オマーンに展開する大日本帝国陸軍第1方面軍は約18万人の兵士により編制されていた。第1方面軍には第1・第2・第3軍の3個軍が所属している。第1軍には第1自動車化歩兵師団・第2自動車化歩兵師団・第1歩兵師団が所属。第2軍には第2歩兵師団・第3歩兵師団・第4歩兵師団が所属。第3軍には第1戦車師団・第2戦車師団・第3自動車化歩兵師団が所属。第1方面軍は合計9個師団を傘下にしていたのである。その第1方面軍9個師団に大日本帝国本土から3個師団が増派された事により、[増強方面軍]と呼べる規模になっていたのである。
増援として派遣されたのは3個師団であるが、三四式戦車と一〇〇式機関短銃が大量に輸送された。当初の予定では装備更新による訓練を行う為に、作戦開始は5月後半が想定されていた。だが大日本帝国陸軍参謀本部幕僚附(作戦課)参謀の瀬島龍三少佐が、フランス・オランダ陸軍に対して反撃の機会を逃すと強く進言し増援到着から即座にアラビア半島打通作戦を実行する事になった。瀬島参謀の意見は陸軍参謀本部作戦課課長である服部卓四郎大佐が評価し、その案を採用した。服部作戦課課長は陸軍参謀総長である、杉山元大将に直訴し杉山参謀総長が採用した結果即座に開始される事になった。服部作戦課課長と杉山参謀総長は瀬島参謀の能力を評価し、採用する価値があると判断したのである。そして1942年4月20日。大英帝国保護国オマーンに展開する大日本帝国陸軍第1方面軍は、大日本帝国海軍連合艦隊機動艦隊の支援を受けて、アラビア半島打通作戦を開始した。
陸軍第1方面軍の司令官は新任の司令官に交代しており、新たに石原莞爾中将が陸軍第1方面軍司令官に着任した。大日本帝国陸軍石原莞爾中将と言えば[世界最終戦論]の著者として知られ、[帝国陸軍の異端児]とも呼ばれる人物であった。東條陸相とは確執があったが、東條陸相も陸軍大臣という要職に就き世界情勢がきな臭くなるなかで、個人的感情から石原莞爾中将を左遷させたり予備役編入を行う事はしなかった。
そして中東での重要な作戦を行うに辺り、前回の防衛戦での散々な結果を覆すべく東條陸相は確執を超えて、帝国陸軍の異端児石原莞爾中将を司令官として送り込んだのである。石原中将は最初にその辞令を受けた時に、思わず聞き返した程であった。だが杉山参謀総長は辞令は間違い無いと断言し、石原中将は辞令を受けたのであった。そして石原中将は輸送船団に乗り込み、中東オマーンに向けて出港したのである。
その時埠頭には東條陸相が見送りに来ており、石原中将と東條陸相は久し振りにお互いの姿を見たのであった。確執を超えて司令官に任命してくれた東條陸相に、石原中将は輸送船のデッキから敬礼を行った。それを見た東條陸相も答礼し、2人の軍人は完璧な敬礼を行ったのである。輸送船と埠頭の距離もあるが、2人に言葉は必要無かった。敬礼を行いながら視線で会話していたのである。石原中将と東條陸相それぞれに付き添っていた副官達に、私は戦後取材を行ったが両者の副官は口を揃えて語っていた。「笑顔を浮かべ、久し振りに柔和な表情であった。」』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より抜粋
瀬島龍三、服部卓四郎、石原莞爾、登場させたかった人物を一気に登場させる事が出来ました。この小説の世界線では瀬島龍三は戦後に、伊藤忠商事で働く事は無いでしょう。ですが伊藤忠商事はこの小説の世界線では既に繊維業中心から、重工業化路線に移っています。
伊藤忠商事も史実では1941年(昭和16年)9月に 丸紅商店、伊藤忠商事、岸本商店の3社が合併して、三興株式会社となりましたが、この小説の世界線では伊藤忠商事の名前のままにしました。