ジェット戦闘機烈風
1942年4月7日。大日本帝国茨城県稲敷郡阿見村にある海軍霞ヶ浦飛行場に、山本総理兼海相以下、永野軍令部総長・小澤連合艦隊司令長官が訪れていた。霞ヶ浦飛行場は大日本帝国海軍の試作機等の試験飛行を行う場所であり、その為に飛行場全域に於いて実戦部隊が配備されていない場所であった。しかも滑走路の1つは空母の飛行甲板を模した区画があり、わざわざ艦艇用機関を設置し蒸気カタパルトまで設置されていた。それは海軍航空隊用の機体のみならず、連合艦隊機動艦隊艦載機用の機体も試験飛行する必要があった為の措置であった。そして今回はその飛行甲板を模した区画のある滑走路に、山本総理兼海相以下首脳陣が集まっていたのである。視察に訪れた理由はジェット戦闘機烈風が遂に実用化された為である。既に量産は始まっており、今回は量産初号機を利用したデモ飛行を兼ねていたのだ。
蒸気カタパルトにより射出されたジェット戦闘機烈風は、先月の海軍検討会議で海軍航空本部本部長が指摘した通り、目を見張るような急加速は出来ていなかった。だがそれでも暫くするとみるみる加速を続け、レシプロ機では到達出来ない速度を発揮していた。山本総理兼海相が最高速度を尋ねると、海軍航空本部本部長は855キロだと説明した。現状で世界最速を誇る陣風艦上戦闘機でさえ、700キロであった。それを155キロも上回るのである。まさにジェット機だからこそ可能になった速度だった。飛行場上空を飛行し一度高度を確保したジェット戦闘機烈風は、地上に設置された標的に向けて攻撃を開始した。
その攻撃は圧倒的であった。ジェット戦闘機烈風の瞬間火力は強力であり、地上に設置された標的は一瞬にして破壊されていた。海軍航空本部本部長はジェット戦闘機烈風の武装について説明を始めた。ジェット戦闘機烈風の武装で最大の目玉は、機首に設置された30ミリ機関砲4門であった。ジェット戦闘機烈風は2基のエンジンを翼付け根の胴体側面に装備する双発機として開発され機体は、葉巻型の胴体に低翼配置・直線翼の主翼を持ち、空母艦載機として運用する為に主翼も折り畳み機構が採用されていた。これにより機首にプロペラが無い為に、30ミリ機関砲を機首に集中して配置する事が出来たのである。機首に大口径機関砲が配置された事により、空戦時の射撃精度は格段に向上していた。そして両翼には13ミリ機銃が6門配置されており、更には50キロ噴進弾14発も搭載可能であった。圧倒的な武装であった。これ以上の武装を誇る機体は現時点では、世界中探しても存在しなかった。
あまりの武装に山本総理兼海相や永野軍令部総長、小澤連合艦隊司令長官は驚いていた。特に小澤連合艦隊司令長官は、空母艦載機の理想形だと呟いていた。永野軍令部総長は海軍航空本部本部長に対して、ターボジェットエンジンの改良は進んでいるのか尋ねた。海軍航空本部本部長は改良は進んでおり新型の耐熱合金ブレードの開発も順調でありエンジン寿命や燃費を改善した、新型エンジンは冬には量産可能になると応えた。それを聞いた永野軍令部総長は安堵の表情を浮かべたが、小澤連合艦隊司令長官は少し残念そうだった。エンジン寿命や燃費が改善されていれば、艦隊直掩専用では無く攻撃に使えた筈であったからだ。
だが山本総理兼海相は強力な艦隊直掩専用機が存在する事は空母を守る意味では重要であるとしてジェット戦闘機烈風の有効性を後押しした。そして量産が進み次第、空母艦載機と海軍航空隊に配備するように命令したのであった。