蒋介石来日
1942年4月1日。中華民国の蒋介石国家主席が大日本帝国へ来日した。戦時中に於ける外国要人の来日である為に、大日本帝国は凄まじ規模での警備体制を敷いていた。蒋介石国家主席の乗り込んだ特別機は東京都練馬区光が丘にある帝都防空専門の『成増陸軍航空基地』に着陸した。そこから大日本帝国の用意した車列により、蒋介石国家主席は山本総理兼海相が待つ首相官邸へと移動したのである。そこで蒋介石国家主席は山本総理兼海相と対面する事になり、史上初の日中首脳会談が開催されたのだ。
『史上初の日中首脳会談開催は歴史的なものになった。この瞬間を取材しようと主要新聞社のみならず、大日本帝国のありとあらゆる地方からも地方新聞記者が詰め掛けた。その為にどのような新聞でも一面を飾っていた。今でもその当時の新聞は国立国会図書館に行けば、山本総理兼海相と蒋介石国家主席が握手している写真が掲載された各新聞一面を見る事が可能である。
ラジオ放送も[国営放送]たる[帝国放送協会]が生中継を行い、史上初の日中首脳会談を生放送し続けた。帝国放送協会は1930年4月1日に放送法が施行され、当時の社団法人日本放送協会を国営放送化し逓信省の外局にした組織である。これにより当時の大日本帝国のラジオ放送は帝国放送協会(THK)を中心に、民間放送局2社の放送体制になっていた。聴取率は高い数字を維持しており、各家庭に真空管式ラジオは必須家電になっていたのである。小型化も行われており真空管式ラジオを各財閥が大量生産を行い、庶民でも気軽に買える物になっていた結果であった。その為にそこそこの家庭になれば複数台の真空管式ラジオを持つに至っていた。話を戻す。
史上初の日中首脳会談で蒋介石国家主席は、正式に参戦を表明したのである。蒋介石国家主席は陸軍は50個にも及ぶ師(師団相当)を編成しており、大日本帝国を支援する能力は十二分にあると力説したのである。それに対して山本総理兼海相は感謝の言葉を述べたが、まずはこれを見て欲しいと語り秘書官に記録映画を上映するように言ったのである。その記録映画にはオマーンの戦いで撃破したIV号戦車が映し出されていた。内容はオマーンから空輸されたIV号戦車の相模原陸軍兵器廠で行われた、性能評価を撮影した記録映画だったのである。IV号戦車の主砲口径や装甲厚が推定値ながら算出され、九五式戦車では全く対抗出来ない事が映し出されていた。それは蒋介石国家主席を驚愕させるのに十分であった。このIV号戦車に対抗する為に三四式戦車を制式採用し、緊急に大量生産を行っている事も記録映画には映し出されていた。
そして山本総理兼海相は陸軍の歩兵火器も更新しており、一〇〇式機関短銃を緊急に大量生産し歩兵部隊に装備させる事にし、新型の41式機関短銃マンドリンを大量生産を開始したと語った。更に新型自動小銃と機関銃の開発を行っており、陸軍の装備は全面的に更新されていくとも説明したのである。そこまで聞いて蒋介石国家主席は、自分達の陸軍が数だけであるのに気付いた。大日本帝国から購入した九五式戦車は数輌しか保有しておらず、歩兵火器も三八式歩兵銃が主力であり一〇〇式機関短銃は一切購入していなかった。
そこで山本総理兼海相は中華民国が参戦表明をしてくれた事へのお礼として、更新対象の旧式兵器を全て中華民国へ譲渡すると表明したのだ。これには蒋介石国家主席が驚いた。しかも山本総理兼海相は旧式兵器は歩兵火器だけで無く、陸軍海軍航空隊の戦闘機と爆撃機も含まれると言ったのである。更に本格的な軍事顧問団を派遣し、中華民国軍の教育指導を行う事も表明したのだ。
蒋介石国家主席は山本総理兼海相の対応に感謝の言葉を述べ、旧式兵器譲渡と軍事顧問団派遣は決定したのである。その後日中首脳会談は更なる議題へと移っていった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より抜粋




