参戦表明
1942年3月25日。大日本帝国本土から中東オマーンに向けて、三四式戦車と一〇〇式機関短銃を装備した陸軍部隊が出港して2日が経過した日に、中華民国政府からの特使が大日本帝国を訪れていた。帝都東京首相官邸で会談を行う事になった山本総理兼海相と中華民国特使であったが、その内容は予想外のものであった。
『大日本帝国と中華民国は、1936年に[日中同盟]を締結していた。しかしこの同盟は大日本帝国と大英帝国間の[日英同盟]、後の[日英伊三国軍事同盟]とは違い、安全保障を重視したものでは無く経済的繋がりを重視していたものであったのである。それは日中同盟を提案した大日本帝国側が意図的にしたものであった。大日本帝国は中華民国が中国共産党との内戦から、未だに復興途上であるとして双務的な[軍事同盟]となると中華民国への負担が多大になり過ぎるとして、配慮した結果であった。
しかしその配慮の甲斐もあり、大日本帝国からは各財閥の傘下企業が続々と中華民国へと進出した。中華民国各地には有望な資源地帯が豊富にあり、大日本帝国から進出した各財閥はそれらを次々と開発していった。それら開発された資源は日中で半数ずつに別けられ、中華民国にも利益はあるのもとなっていた。更には中華民国全土の鉄道輸送網も満洲帝国の[南満州鉄道株式会社]が進出し、整備運行を行っていた。その影響により南満州鉄道株式会社は満洲帝国の一大企業に発展し、満洲帝国のほぼ全ての産業を内付する超巨大財閥に発展していたのである。
南満州鉄道株式会社の大規模な発展は中華民国のみならず満洲帝国の物流を支え、各種産業は大日本帝国の開発する資源により着実に成長していたのである。重厚長大産業も大日本帝国の技術指導により成長し、開戦直前には中華民国は粗鋼生産量350万トン、満洲帝国は粗鋼生産量420万トンに達していた。そして大日本帝国と大英帝国・イタリア王国が、アメリカ合衆国・フランス・オランダと開戦する事態になったが先に述べた理由から、中華民国は戦争には参戦しなかった。
満洲帝国は大日本帝国と同盟関係にあるとはいえ、事実上保護国のようなものでありだからこそ戦争には参戦しない理由となっていたのである。しかし開戦以後の大日本帝国の快進撃は中華民国の目を見張る物があり、特に短期間で東南アジア一帯からアメリカ合衆国・フランス・オランダ勢力を一掃した事は、中華民国政府で大きな話題となっていた。そしてその頃から中華民国政府では大日本帝国との同盟関係を理由に、第二次世界大戦への参戦が議論される事になったのである。内戦の傷跡も大日本帝国による資源開発と、技術指導により経済は着実に上向いており軍の再建も順調に行われていた。
その成果が表れた事により中華民国は大日本帝国に特使を派遣し、1942年3月25日正式に参戦を表明したのであった。』
小森菜子著
『帝国の聖戦』より一部抜粋




