次の火種
1942年3月18日。全くの偶然であったが、世界は同時に次なる行動が巻き起こった。まずは大日本帝国が中東の大英帝国保護国オマーンに派遣していた海軍航空隊を、大英帝国の各植民地を経由させながら大英帝国本土へと送り込んだ。そしてアメリカ合衆国が本土の陸軍師団と陸軍航空軍を動員して、大英帝国連邦構成国であるカナダへと侵攻したのである。
まず大日本帝国海軍航空隊の移動であるが、1942年3月13日に大英帝国派遣を閣議決定してから即座に実行された。1個航空隊辺り400機という数を保有している海軍の2個航空隊が、一路大英帝国本土を目指して一斉に飛び立ったのである。司令部である第11航空艦隊司令官である塚原二四三大将と、参謀長である大西瀧治郎中将も大英帝国にまで進出する事になった。だが大英帝国にまで進出する途中で、イタリア王国に給油の為に立ち寄ると事態が若干ややこしくなった。イタリア王国側が自分達にも援軍派遣をして欲しいと言い出し、塚原司令官に直訴する事になったのである。
困惑する塚原司令官に大西参謀長が助け舟を出し、援軍派遣は政府間の要請で行って欲しいと語ったのである。一介の軍人が安請け合い出来る問題では無いと、キッパリ言い切った。そこまで言われてイタリア王国側はようやく自分達の醜態に気付き、塚原司令官に謝罪した。塚原司令官はイタリアの窮状は痛い程分かるとして、大日本帝国政府も悪い返事はしないだろうと語り政府間交渉を行うように進めた。補給を終えた海軍航空隊はイタリア王国を飛び立つと、一路大英帝国本土を目指した。このヨーロッパ横断飛行が今回の大英帝国本土進出の、最大の難関であった。
フランスの占領下にあるヨーロッパを横断して大英帝国へ強行突破するのである。海軍航空隊に配備されている零式艦上早期警戒機を最大限活用して飛行する事になった。そのうえで九八式艦上偵察機と零式艦上早期警戒機の到達可能な実用上昇限度である10000メートルで、海軍航空隊全機が飛行し迎撃をなるべく受けないようにしていた。フランス陸軍航空隊のBf-109は実用上昇限度が11800メートルであったが、捕捉してから上昇する時間がかなり必要であった。それに加えてフランス陸軍の保有する高射砲は10000メートルまでの高度にまで到達出来なかった。
それはフランス陸軍のみならず世界各国の高射砲が抱える問題であり、世界で成層圏まで到達する事が可能な高射砲は大日本帝国海軍の『10センチ両用砲』だけであった。それ以外では大日本帝国陸軍が海軍の10センチ両用砲を牽引砲に改良した物を開発中であった。
その為に想定していた以上にフランス陸軍の迎撃は簡単に交わす事が出来、大日本帝国海軍航空隊は大英帝国本土に到達する事が出来たのである。大英帝国帝都ロンドン近郊の空軍基地に着陸した、大日本帝国海軍航空隊は大英帝国首相チャーチル直々の出迎えを受けた。その歓迎は熱烈なものであった。数万人にも及ぶ民間人も、遥々やって来た東洋からの援軍を一目見ようと駆け付けていたのである。チャーチル首相は塚原司令官と大西参謀長に握手を求めると、感謝の言葉を口にした。
塚原司令官は着陸する時に機体からロンドンを見下ろしたが、バトルオブブリテンの惨状を表すように建物が至る所で崩壊していた。これ以上の攻撃を防ぐ為にも、海軍航空隊には大いに活躍してもらわないとならなかった。チャーチル首相は海軍航空隊の操縦士達に握手をしながら、感謝の言葉を述べていたがそこへイーデン外務大臣が血相を変えて走って来たのである。チャーチル首相は英国紳士たるもの慌てふためくのは見苦しい、と注意したがイーデン外務大臣はそれに構わず大変な事態が発生したと語ったのである。チャーチル首相はさすがに事態の深刻さに気付き、イーデン外務大臣に説明させたがそれは驚くべき事態であった。イーデン外務大臣はアメリカ合衆国がカナダへと侵攻を開始したと言ったのである。それはチャーチル首相を暫くは思考停止にさせるのに十分な情報であった。




