バトルオブブリテン
1942年3月11日。大英帝国本土は壮絶な戦いが繰り広げられていた。
『フランス陸軍は何故ドーバーへの上陸を行わなかったのか。これは戦後、歴史学者や作家等が口を揃えて非難する点になっている。ヨーロッパ大陸のカレーから大英帝国のドーバーは50キロも離れていないのだ。その為に大英帝国はドーバーを中心に周辺都市部を含めて、防衛体制を整えていた。陸軍部隊や空軍基地も増設し、万が一の事態に備えていたのである。万全な体制を整えていた筈の大英帝国であるが、弱点が無い訳では無かった。それは守備部隊をドーバー周辺に集結させ過ぎていたのである。大英帝国政府はフランス・オランダ両国がヨーロッパ制圧を行ってから、次は自分達であると防衛体制を強化していた。
上陸を想定したがそれは当然ながら、ドーバー周辺に行われるだろうとの予測から防衛体制を整えたのである。だがその結果としてブリテン島南東部のドーバー周辺の防衛体制は強固になったが、ブリテン島東北部や南部に掛けては手薄になる結果となった。その為にフランスは陸軍航空隊による大英帝国本土空襲作戦を実行した折に、偵察機を紛れ込ませており沿岸部を強行偵察したのである。その結果ブリテン島南部沿岸のサウサンプトンやポーツマスが、ドーバー周辺に比べて明らかに手薄である事を掴んだのだ。
そして1942年2月11日午前11時にフランスは大英帝国サウサンプトンへの上陸を敢行し、1個軍団が上陸を決行し2個空挺師団も降下した。フランス陸軍は大英帝国侵攻に第5総軍を新設し、残りの部隊も順次派遣する予定であった。更にはオランダ陸軍も第16方面軍を派遣すると約束しており、サウサンプトンが確保され次第派遣される予定となっていた。その後オランダ陸軍も第16方面軍を派遣し、フランス陸軍とオランダ陸軍は合同でポーツマスをも占領。すぐ南にあるワイト島も占領し、初期作戦目標は達成された。フランス陸軍とオランダ陸軍はまずは兵站線の確保を最優先に行い、港は占領し物資輸送の拠点として、大陸側から続々と輸送船団は出港した。
大英帝国としても上陸は許したとはいえ、更なる増援は何としても阻止する必要があった。世界に誇るべき王立海軍は、フランス海軍の潜水艦により根拠地スカパフローに閉じ込められていた為に、大英帝国首相チャーチルは空軍に対して船団への空襲を命じた。この命令により大英帝国空軍は、スピットファイア戦闘機・ハリケーン戦闘機に護衛させたハリファックス重爆撃・ブレニム爆撃機を出撃させたのである。
だがフランスも陸軍航空隊に出撃を命じており、Bf-109が輸送船団の航空支援を行っていた。その為に大英帝国空軍とフランス陸軍航空隊は、ドーバー海峡にて激突。苛烈な空戦が繰り広げられたが、空戦は痛み分けに終わった。だが大英帝国空軍は王立空軍の意地を見せ、輸送船団の3分の1は撃沈する事に成功したのである。しかしフランス陸軍は残る3分の2は輸送を強行し、何とか大英帝国本土に送り込んだ。それを受けて大英帝国は空軍を動員して徹底的な海峡輸送阻止作戦を展開する事にした。だがフランスも送り込んだ陸軍部隊の補給兵站線を確保する為に、大英帝国の空軍と真っ向勝負を挑む事になった。
その結果バトルオブブリテンと呼ばれる、大英帝国本土上空を舞台にした、大英帝国とフランスによる航空撃滅戦が繰り広げられる事になったのである。』
小森菜子著
『欧州の聖戦』より一部抜粋