新型戦車視察
1942年3月6日。陸軍検討会議で語られた新型中戦車の視察の為に東條陸軍大臣は、神奈川県高座郡相模原町にある『相模陸軍兵器廠』を訪れていた。主に陸軍の戦車部品・本体・試作機の製造などを行っており、『戦車道路』と呼ばれる附属のテストコースや『戦車広場』と呼ばれる附属の砲撃や実戦を想定した機動走行を行う土地を有していたのである。大日本帝国陸軍は戦車の開発は自らの技術部門で行い、生産に於いてようやく軍需企業に協力してもらう事になっていた。
既に新型中戦車は設計も終え試作車輛も製造し問題点を洗い出し、現在は量産試作車輛を用いての最終調整を行っていた。そもそもが新型重戦車になる予定だったが、オマーン防衛戦でのIV号戦車の登場により分類変更により中戦車となった。その為に開発をし直す事になった重戦車はこの新型中戦車以上の重武装・重装甲を求められる事になったのである。
戦車広場にて機動走行テストを行う前の新型中戦車に、東條陸相は相模原陸軍兵器廠廠長の案内で近付いて行った。東條陸相には陸軍機甲本部本部長・陸軍兵器行政本部本部長・陸軍技術本部本部長が付き従っていた。新型中戦車の周りには軍人をはじめ技術者がいたが、ひと際目を引いたのはロシア人技術者であった。近付いて来た東條陸相に気付いた彼等は整列すると、相模原陸軍兵器廠廠長がロシア人技術者を東條陸相に紹介したのである。彼の名は『ミハイルイリイチコーシュキン』であり、新型中戦車である『三四式戦車』を開発した技術者であったのである。
『新型中戦車三四式戦車は、ロシア人技術者であるコーシュキンが新型戦車に関するアイデアをまとめ始めた1934年の年号にちなんで、コーシュキンが命名したものであった。東條陸相はコーシュキン技術者の設計した新型中戦車に感銘を受け、正式名称としてコーシュキン技術者の命名を採用する事にしたのである。
東條陸相が感銘を受けたように、三四式戦車はその当時では世界最強の戦車に相応しい性能を有していたのである。九五式戦車が全長4メートル・全幅2メートル・最大速度65キロの所を三四式戦車は全長8.15メートル・全幅3メートル・最大速度50キロであった。速度は少し低下したがそれ以上に車体が巨大化しており、それを補って尚50キロもの速度を出す事が最大の特徴であった。
そして九五式戦車の武装が38ミリ砲1門・8ミリ機銃2門、最大装甲厚30ミリ、乗員4名なのに対して三四式戦車は武装が85ミリ砲1門・8ミリ機銃2門、最大装甲厚90ミリ、乗員5名となった。九五式戦車に比べて格段に性能が向上していた。この性能に東條陸相は感銘を受けたのである。
オマーン防衛戦で撃破したIV号戦車は大日本帝国陸軍航空隊の輸送機で、相模原陸軍兵器廠に運び込まれており武装と最大装甲厚は解析されていた。IV号戦車は75ミリ砲を搭載し、最大装甲厚70ミリを誇る戦車であり九五式戦車では話にならない性能差であったのだ。一通り説明が終わり機動走行テストを視察し終えると、実際に三四式戦車を用いた実弾テストが行われる事になった。まずはIV号戦車を見立てた70ミリ厚の装甲板が用意はれ、三四式戦車が砲撃を行った。今までの大日本帝国陸軍の戦車には無い長砲身の85ミリ砲は、見事に70ミリ厚の装甲板を貫通したのである。そして次は三四式戦車目掛けて75ミリ砲が砲撃を行ったが、三四式戦車の90ミリの装甲は見事に75ミリ砲を弾いたのである。
東條陸相は驚くべき性能に目を疑った。攻撃能力は主砲口径の大きさと長砲身から予想出来たが、防御力の高さに東條陸相は驚いていた。そこで東條陸相はコーシュキン技術者に防御力について尋ねたのであった。コーシュキン技術者は防御上有利となる避弾経始を考慮した傾斜装甲(砲塔のサイズと車体とのフォルム含む)を採用したのが最大の理由だと語った。装甲を垂直では無く傾斜させる事により、避弾経始を発揮させ敵弾を弾く事を第一にさせたのである。更に装甲板に電気溶接を採用し、リベットの欠点を克服したのも大きかった。リベット留めの装甲板は破砕の問題につながったのである。これは敵弾が当たった時、その弾そのもので戦車や乗員を無力化できなかったとしても弾が当たった時の衝撃でリベットや、断裂した装甲板の破片が車内に飛散し乗員を殺傷してしまう現象でもあった。
防御力についても納得した東條陸相はこの三四式戦車を気に入り、正式採用と大量生産を行う事を力強く宣言したのであった。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より抜粋