オマーン防衛戦2
反攻を開始したのは大日本帝国陸軍第1方面軍であった。大日本帝国陸軍は平時は最大編制を『師団』としていたが、戦時となると『師団』の上位編制として『軍』を編制。更にその上位に『方面軍』、その上位に『総軍』を編制する。中東派遣部隊は戦時も含めた陸軍の編制に於ける2番目に大きな集団として編制し送り出された。大日本帝国陸軍第1方面軍は約18万人の兵士により編制されていた。第1方面軍には第1・第2・第3軍の3個軍が所属している。第1軍には第1自動車化歩兵師団・第2自動車化歩兵師団・第1歩兵師団が所属。第2軍には第2歩兵師団・第3歩兵師団・第4歩兵師団が所属。第3軍には第1戦車師団・第2戦車師団・第3自動車化歩兵師団が所属。第1方面軍は合計9個師団を傘下にしていたのである。
大日本帝国陸軍はこの第1方面軍に最精鋭師団を集中配備していた。戦車師団と自動車化歩兵師団は大日本帝国陸軍が本格的に編制した初めての部隊であり、1942年3月の時点では第1方面軍にしか配備されていなかった。本土や東南亜細亜に侵攻した歩兵師団には戦車連隊や自動車化歩兵連隊としてしか配備されていなかったのである。この事態も大日本帝国の生産体制が貧弱である為に発生した事であったが、ある意味で今回の反攻で救われる事になった。
『大日本帝国陸軍第1方面軍は大日本帝国海軍連合艦隊機動艦隊の艦載機による航空支援を受けながら反攻作戦を開始した。戦車師団の主力は九五式戦車であったがこの九五式戦車は、38ミリ砲と最大装甲厚30ミリしか無い戦車であったのである。ディーゼルエンジンを搭載し最大65キロの速度を誇り、高い機動力を誇ったが利点は速度だけであった。あまりにも貧弱過ぎる為に、航空支援前提での運用が命令されていたのである。その為に航空支援として大日本帝国海軍連合艦隊機動艦隊の艦載機が展開し、近接航空支援を開始したがそれでも一部ではフランス・オランダ合同陸軍のⅣ号戦車と壮絶な砲撃戦を開始した。IV号戦車は75ミリ砲を搭載し、最大装甲厚70ミリを誇る戦車である。九五式戦車では正面から戦えば、全く勝負にならない性能差であった。唯一九五式戦車がIV号戦車に勝っているのは速度だけであり、九五式戦車の最大65キロに対してIV号戦車は最大40キロしか無かった。
一部ではフランス陸軍とオランダ陸軍の機甲師団は、空を覆い尽くす程の航空機による空襲を受け
、それはフランス陸軍とオランダ陸軍が未だかつて経験した事の無い、規模と破壊力を有していたものとなったが、それ以外での戦場ではIV戦車により一方的に九五式戦車が撃破されていった。IV号戦車の75ミリ砲に、九五式戦車の最大装甲厚30ミリは紙のように貫通された。次々と爆発し砲塔が吹き飛ぶ光景が繰り広げられたのである。逆に九五式戦車の38ミリ砲ではIV号戦車の最大装甲厚70ミリは貫通する事が出来ずに弾かれるばかりであった。
一部の九五式戦車は速度を活かしてIV号戦車の後方に回り込んで砲撃を加え、何とか破壊する事が出来たがそれは一部に過ぎなかった。あまりにも一方的に破壊され過ぎてその損害比率は1対12にも上ったのである。つまりは1輛のIV号戦車を撃破するのに九五式戦車12輛が犠牲になったのだ。あまりの被害に第1方面軍司令部は戦車師団の進撃を停止させた、それは他の自動車化歩兵師団と歩兵師団の進撃も停止させる事になり、第1方面軍司令部は海軍連合艦隊機動艦隊に対して更なる全面的な航空支援を要請した。眼下で繰り広げられる砲撃戦の報告を受けていた為に、中東派遣艦隊司令長官兼中東派遣総軍司令長官である第1機動艦隊司令長官中野真知子中将は連合艦隊機動艦隊航空隊に対して徹底的な空襲を命じた。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より抜粋