ニューヨーク空襲
1944年5月20日、アメリカ合衆国ニューヨークに大日本帝国海軍航空隊の戦略爆撃機富嶽が飛来した。快晴であり夥しい数の飛行機雲が地上からも確認出来、それを見た人々は凍り付いた。首都ワシントンDC空襲を皮切りに、戦略爆撃機富嶽は連日の空襲を行っていたがニューヨークには初めての飛来だった。
新聞やラジオでアメリカ合衆国本土が空襲されていると報じられていたが、ニューヨークは空襲されないという根拠の無い噂があり数多くの人々が避難していた。それは単純に大日本帝国がニューヨークという巨大都市を無差別戦略爆撃を開始したとはいえ、本格的な空襲を躊躇していただけであった。
だが新たにハワイ諸島に展開する戦略爆撃機富嶽を運用する海軍航空隊の指揮官となった、源田実中将(1942年10月に士気高揚の策として、山本総理兼海相と東條陸相が全軍人の昇進を発表し、全員が一律に1階級昇進した。更に航空隊拡大による指揮官数増加による任命時の昇進で、史実より2階級高い。)は一切の躊躇無くニューヨーク空襲を命じたのであった。
そして整備と搭乗員最終調整用に作戦に参加しなかった機体を除く、500機が作戦に参加した。大日本帝国本土では戦略爆撃機富嶽が大量生産体制に入り、その量産ペースは日に日に拡大していった。その成果がワシントンDC空襲時より参加数が100機増加している理由だった。
そして250機ずつの爆撃機型と掃射機型に分かれ、戦略爆撃機富嶽はニューヨークに飛来した。ブルックリン海軍工廠では修理中や建造中の艦艇の工事が進んでおり、近郊の軍需工場にはニューヨークから大量の人々が通勤していた。
そんな中でエンパイアステートビル等の高層ビルの屋上には、対空砲や監視員が配備されており戦略爆撃機富嶽の接近を察知した。だが戦略爆撃機富嶽は実用上昇限度13500メートルという、『空』というより限り無く『宇宙』に近い所を飛行する機体だった。
当然ながら高層ビルの屋上に設置したとはいえ、対空砲は全く役に立たず戦略爆撃機富嶽の遥か下で炸裂するばかりだった。その後から監視員の報告によりようやく空襲警報がニューヨークに鳴り響いたが、それは完全に逆効果だった。人々はパニックになり逃げ惑い、道路は暴走するタクシー等の車輌が人々を跳ね飛ばす地獄絵図となっていた。
根拠の無い噂を信じた人々によりニューヨークの人口は増大しており、パニックに拍車をかけていた。そしてその地獄絵図のパニックにとどめを刺すように、爆撃機型の富嶽は爆弾倉を開くと1トン爆弾を次々と投下したのであった。




