大戦略2
『そしてその戦略爆撃機富嶽の量産と配備、訓練が軌道に乗った事により開催されたのが1944年5月1日の御前会議だった。戦略爆撃機富嶽の大量生産は大日本帝国の不断の努力により、そのペースは拡大の一途であった。何せ予算規模では核兵器開発計画の[G計画]を遥かに上回るものだったのだ。
そして始まった御前会議に於いて、山本総理兼海相は天皇陛下に対して現状の陸海軍の作戦を説明した。その中で何よりも重要だったのが、アメリカ合衆国に対する戦略爆撃機富嶽を用いた戦略爆撃だった。現状大日本帝国海軍航空隊の重陸上攻撃機深山と陸軍航空隊の重爆撃機連山は、航続距離8800キロを誇りヨーロッパ全域に戦略爆撃を敢行していたが、遂にアメリカ合衆国に対して全面的な戦略爆撃を敢行する事になったのだ。
天皇陛下の強い意向もあり戦略爆撃は軍需工場を中心に行われていたが、民間人の被害が皆無という訳では無かった。あからさまに都市部への無差別爆撃は行っていなかったが、どうしても被害は出てしまった。
そんな中でのアメリカ合衆国への本格的な戦略爆撃であるが、山本総理兼海相は無差別爆撃を含む全面的な戦略爆撃を敢行すると説明したのである。その後の御前会議の流れは御前会議が議事録を残さない性質上、私の取材成果を物語風に纏めたいと思う。
――戦略爆撃機富嶽の量産と実戦配備、そしてそれに伴う搭乗員の訓練・戦術研究が、ようやく本格的な軌道に乗ったことで、昭和十九年五月一日、厳粛なる御前会議が開かれた。
この時点で富嶽の月産数は軌道に乗っており、翌月以降はさらに増産ペースが加速することが確実視されていた。何しろその事業規模は、大日本帝国が進めていた核兵器開発計画〔G計画〕の予算総額を、遥かに凌駕するほどの国家的な額となっていたのである。もはや富嶽は単なる兵器ではなく、大日本帝国が総力を挙げて賭けた戦略的生命線そのものと化していた。
会議の冒頭、山本五十六総理兼海軍大臣は、静かに、しかし力強い口調で天皇陛下に対し、現下の陸海軍の作戦状況を説明し始めた。
「現時点におきまして、重陸上攻撃機『深山』および重爆撃機『連山』による欧州方面への長距離戦略爆撃は、既に相当の成果を収めております。両機種とも航続距離八千八百キロメートルを有し、補給拠点の支援を得つつ、ヨーロッパ大陸のほぼ全域にわたる精密爆撃を実施することが可能となっております。
しかしながら、アメリカ合衆国本土に対する本格的な戦略攻勢につきましては、これまで様々な制約により、十分な規模で行うことが叶っておりませんでした。……本日、ここにその制約が取り払われつつあることを、まずご報告申し上げたく存じます」
山本は一呼吸置き、ゆっくりと視線を上げた。
「戦略爆撃機『富嶽』は、ハワイ諸島の我が軍飛行場群を基地とする実戦配備に就き、既に複数回の長距離往復航行を成功させております。加えてアメリカ合衆国東海岸への長距離偵察任務も開始され、アメリカ合衆国全域への到達が現実のものとなった次第でございます」
会場にいた重臣・軍首脳らの間に、静かだが確かな緊張が走った。
続いて山本は、慎重に言葉を選びながら核心に触れた。
「これまで陛下のご聖慮により、我が軍の戦略爆撃は、可能な限り軍需生産施設・工業中枢を対象とし、民間人の居住地域に対する無差別攻撃は厳に慎むよう、厳格な統制が敷かれてまいりました。その結果、確かに多くの工場が機能を喪失し、敵の戦争継続能力に深刻な打撃を与えることができております。
しかしながら……」
ここで山本は、わずかに声を低めた。
「アメリカ合衆国という国家は、その国土の広大さと工業力の分散性、そして驚異的な生産回復力によって、従来型の精密爆撃のみでは、戦争終結に十分な打撃を与えることが極めて困難であるとの結論に至りました。敵は工場を内陸深くに移し、地下化し、分散させ、夜間にすら生産を継続しております。精密爆撃のみでは、その回復速度に追いつくことができない……これが、現地より上がってくる一致した報告でございます」
重苦しい沈黙が御前を包んだ。
山本はさらに続けた。
「このような状況下で、軍部首脳一同、熟慮を重ねた結果……アメリカ本土に対する戦略爆撃を、従来の『軍事目標中心』という枠組みから、より広範かつ効果的なものへと移行せざるを得ないとの判断に至りました。
すなわち、軍需工場群はもちろん、その周辺に存在する労働力供給地域、輸送結節点、電力・燃料供給基盤をも含めた、一層包括的な攻撃体系を構築する必要がある……そのためには、都市部に及ぶ被害を完全に避けることは、極めて困難であるという現実を、覚悟せざるを得ません」
言葉の最後は、ほとんど囁くように小さくなった。
天皇陛下は長い間、無言のまま玉座に座しておられた。
やがて、静かで、しかし明瞭な御声が響いた。
「……朕は、常に臣民の苦しみを思い、戦火の拡大を憂えてきた。
されど、今や帝国は、まさに存亡の瀬戸際に立たされている。
敵が我が帝国への戦争意思を持ち続けている以上は、もはやこちらのみが手を縛られ、片手落ちの戦いを続けることは、臣民に対する責務を果たさぬことになろう。
……もし他に手段がなく、帝国の存続と東亜の解放のため、やむを得ぬ選択であるならば……
その責任は、朕自らも負うものである」
その瞬間、御前会議の場にいた者たちは、誰もが立ち上がり深く頭を垂れた。
誰もが理解していた。
この一言をもって、大日本帝国はこれまで以上に苛烈な道を歩むことを、陛下自らが受け入れられたのだと。
山本五十六は、額に汗を浮かべながら、深く一礼した。
「謹んで、御聖旨を拝しました。以後、富嶽を中核とする戦略爆撃計画を、帝国の存亡をかけた最終手段として、最大限の効果を発揮すべく、全力を尽くしてまいります」
かくして、昭和十九年五月一日。
歴史は静かに、しかし確実に、一つの重大な転換点を越えたのであった―――
このように御前会議は展開されたと思われる。これにより謂わば大日本帝国の大戦略が決定し、第二次世界大戦は終結に近付く事になったのである。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋




