緊急閣議12
1943年9月15日、大日本帝国帝都東京首相官邸では、山本総理兼海相により緊急閣議が招集されていた。
『戦後の私達からすると1943年9月15日の大日本帝国での緊急閣議は、第二次世界大戦の趨勢に於いて重大な影響を与えたといえる。何せこの閣議の前に行われた作戦に於いて、トルコの領土を奪還しトルコとイタリアにて国境線での防衛体制を構築した。
戦後に判明したがフランス共和国とオランダ王国も、この時期から防衛を優先するようになっており双方が同じ戦略をとる事になった。だがこの時点で優勢なのは大日本帝国であり、アメリカ合衆国は通商破壊戦と西海岸への戦略爆撃機を受けるようになり、1943年9月10日からはイタリア王国に展開する大日本帝国陸海軍航空隊のヨーロッパ各地への戦略爆撃機を開始していた。
ある意味で完全に戦争のターニングポイントとなった瞬間だった。大西洋での通商破壊戦が激しいものになりアメリカ合衆国と、ヨーロッパ側(フランス共和国・オランダ王国)の海上輸送路は分断された。アメリカ合衆国もヨーロッパ側も資源等はそれぞれ自給可能であったが、それも大日本帝国による戦略爆撃機により徐々に被害は拡大していった。
しかも大日本帝国海軍連合艦隊機動艦隊が西海岸や地中海の各沿岸部への空襲を行い、止まらない出血のように被害は続いた。何せ大日本帝国は敵国への直接攻撃を行う側になり、その場所と時間を自由に選べたのだ。それがある意味で大日本帝国が生殺与奪権を有していた。
そしてこの閣議に於いて重要なのは、新型戦略爆撃機富嶽が年内に実用化出来る事になった、という事だった。開発主体は中島飛行機であり、エンジンは石川島播磨重工業が担当する、大日本帝国の誇る新型戦略爆撃機だった。その新型戦略爆撃機は全長50メートル、全幅75メートル、爆弾搭載量25トン、航続距離は25000キロ、6発エンジンという超巨大戦略爆撃機であった。ハワイ諸島からならアメリカ合衆国全土を航続距離に収め、更には大日本帝国本土からもアメリカ合衆国西海岸に到達可能だった。
だがあまりにも高性能過ぎる為に開発の総費用は既に約100億円を突破していた。しかし開発を加速させる為に追加予算が投入され、より大規模な開発となりそれが実を結ぶ事になったのである。こうして年内実用化の目処がつき、大量生産体制も構築されていた。』
小森菜子著
『帝國の聖戦回顧録』より一部抜粋
という事で、次話は時間が飛びます。




