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開戦への足音

全ては1890年から始まった。


1890年にドイツ皇帝ヴィルヘルムが命令し、海軍長官アルフレート・フォン・ティルピッツが計画した建艦計画が、世界的な建艦競争に火をつけた。この計画は順調に進み、これまでも『大洋艦隊』の別名を冠されていたドイツ海軍は大英帝国と同等或いは、個艦能力で一部大英帝国を凌ぐ戦力を保有したのである。この時期の海軍戦力ランキングは1位大英帝国、2位がドイツと言う順位となっていた。しかも上記のように、戦艦の個艦能力では大英帝国を凌ぐ性能を有していたのである。これに当然ながら、大英帝国・フランス・イタリア王国・アメリカ合衆国は対抗意識を燃やした。ドイツ海軍の大洋艦隊を凌駕するべく、此等の国は建艦計画を推し進めた。そして大日本帝國も日露戦争終結から建艦競争に加わった。これに一歩も二歩も進んでいたのが、大英帝国であった。



大英帝国は1906年に『ドレッドノート』を完成させ、世界的な戦艦の常識を打ち破った。このドレッドノートはアメリカ合衆国・フランス・イタリア王国・大日本帝國に衝撃を与え、更に建艦競争を加熱させる結果となった。しかしこの建艦競争は1914年に勃発した、第一次世界大戦で速度が低下した。

第一次世界大戦は大方の予想を裏切り、長期間した。ドイツの降伏で第一次世界大戦が終結したのは、1920年であった。この大戦が世界各国に与えた経済的打撃は大きかった。大英帝国・イタリア王国、そして大日本帝國は辛うじて戦勝国に名を連ねたものの、国内産業の不振や失業者に悩まされた。


第一次世界大戦は事実上、アメリカ合衆国の一人勝ちであった。アメリカ合衆国は参戦から有り余る経済力を背景に連合国側を勝利に導いた。しかしこれはアメリカ合衆国の世界戦略の一環であった。この世界戦略はアメリカ合衆国が世界を支配すると言う、狂気に満ちた考えであった。この戦略を成功させる為にアメリカ合衆国は、世界帝國である大英帝国の対策に頭を悩ませた。世界を支配する為には世界帝國大英帝国を制覇しなければならない。そこでアメリカ合衆国は大英帝国と犬猿の仲である、フランスと手を組む事を決定した。1917年に米仏同盟が締結された。これによりアメリカ合衆国資本が戦時中にも関わらず、フランスに続々と進出。フランス政府は自国産業が買収される危機を感じながらもアメリカ合衆国資本進出を容認。フランス政府は紙一重の賭けを行ったが、その賭けによりフランス経済は発展していった。


そして1921年1月15日。フランスのパリで連合国だけの講和会議が開催された。これによりヴェルサイユ条約が調印された。ドイツは国土を大部分が連合国で割譲され、植民地も連合国に分配された。軍備も保有が禁止され、『自衛隊』なる組織の保有を認められた。『明らかなる侵攻計画が認められる時だけ攻撃を行う。』このように書かれた『ドイツ共和国憲法第9条』を実行するべく組織されたのだ。これによりドイツは、欧州三流の国家に転落した。


1922年1月1日。アメリカ合衆国ウィルソン大統領の提唱がヴェルサイユ条約で設立が認められ、スイスのジュネーブで『国際連盟』が設立された。常任理事国は大英帝国・フランス・イタリア王国・大日本帝國、そしてアメリカ合衆国であった。


国際連盟の常任理事国となった五ヶ国であるが、その仲は冷えきったものであった。その決定的な出来事となったのが大日本帝國が第1回常任理事国会議に提出した『人種差別撤廃法』であった。これに大英帝国・イタリア王国は賛成したが、アメリカ合衆国とフランスが強固に反対した。大日本帝國にとっては白豪主義のオーストラリアを傘下にした大英帝国が賛成するとは思っていなかった為、ここが攻め時とばかりに賛成派を増やそうとした。常任理事国会議では3対2で可決されたが、非常任理事国も参加する理事国総会ではなんと、3対12で否決された。非常任理事国10ヶ国はアメリカ合衆国に追従し、反対に回ったのであった。この事態に大日本帝國・大英帝国・イタリア王国はアメリカ合衆国の行動を非難。3ヶ国のマスメディアも非難した。アメリカ合衆国はそれを無視。日系人排斥を開始し、大英帝国・イタリア王国の移民も排斥し始めた。



これに大日本帝國・大英帝国・イタリア王国は軍拡で対抗した。常任理事国5ヶ国は軍拡による対立を深めていったのであった。しかしその建艦競争は、国家財政を圧迫させた。特に大日本帝國は『八八艦隊建造計画』を立案したが、その計画は無謀であった。建造計画は大英帝国・イタリア王国も立案したが、大日本帝國と五十歩百歩の計画であった。そこでアメリカ合衆国は世界的な軍縮を提案。


1922年4月に、ワシントン軍縮会議を開催した。この会議では戦艦の建造を世界的に制限し、アメリカ合衆国とフランス優位の世界秩序を築こうとする会議であった。まず最初にアメリカ合衆国が提出したのが主力艦(戦艦)の保有量制限案であった。アメリカ合衆国55万トン、大英帝国・フランス40万トン、イタリア王国15万トン。大日本帝國は戦艦の保有を禁止された。これに当然ながら大日本帝國代表加藤友三郎総理以下、代表団は烈火の如く反対した。当然大英帝国とイタリア王国も反対(これは大日本帝國が戦艦保有を禁止された事に対する反対であった)した。海軍力・戦艦こそが国力の象徴であり、戦艦保有禁止は宣戦布告に等しい提案であった。事実、加藤友三郎総理は第1日目終了後の記者会見で、『宣戦布告と受け取れる』と発言した。会議は2週間行われたが、結局は調印されずに終了。会議は流産するかに思われた。しかしアメリカ合衆国は調印させたいばかりに、半年後の再開を提案。これに大日本帝國は一応賛成し、大英帝国とイタリア王国も賛成。会議は半年後の再開となった。




加藤友三郎総理以下、代表団は帰国早々に帝國議会に会議内容の詳細を伝えた。これに帝國議会は『対米強硬論』『対米宣戦布告』『軍縮条約不参加』を声高々に叫んだ。海軍内部でもアメリカ合衆国への強硬論が日増しに増大していった。4ヶ月が経過し、大日本帝國全土で軍縮条約不参加に傾く中、大蔵省はある資料を帝國議会に提出した。それは八八艦隊建造計画を継続した場合、国家財政が破綻。戦わずして国家が崩壊するという結果が出た。


これにより大日本帝國中が揺れた。特に国民の考えが変化した。『海軍は戦わずして国家を崩壊させるつもりなのか?』『軍が国を守らずして何を守る?』これにより帝國議会も軍縮条約賛成に傾き始めた。この大蔵省の資料提出は、加藤友三郎総理と山本五十六海軍次官の影響が大きい。2人は現在の状況を危惧し、早期健全化を進めていた。そこで大蔵省に資料提出を行わせたのである。海軍内部においても、考えは大きく変化した。『国家・国民を守るのが海軍連合艦隊の役目であり、今までの軍拡は国民の皆様に負担を増大させる要因であった。』とは、当時の連合艦隊司令長官の謝罪である。これにより海軍と帝國議会を纏める事に成功した加藤友三郎総理は、再びワシントンに向かった。



第2回目の軍縮会議で大日本帝國代表団は、アメリカ合衆国に対して空母の無制限保有を要求した。これにアメリカ合衆国は二つ返事で認めた。これにより大日本帝國は軍縮条約に調印。これに大英帝国とイタリア王国・アメリカ合衆国・フランスも調印。これにより条約は、即日施行された。この条約調印により加藤友三郎内閣は国民を味方に付け、『海軍主兵路線』『空母主兵主義』を突き進む事になった。


ワシントン軍縮条約により戦艦の保有は禁止されたが、空母の保有をアメリカ合衆国に無条件で認めさせた。そこで海軍は完成戦艦・建造途中の戦艦を空母に改装する事を決定。『金剛』『比叡』『榛名』『霧島』『扶桑』『山城』『伊勢』『日向』『長門』『陸奥』『赤城』『加賀』を空母に改装した。この戦艦改装空母に加え、巡洋艦・駆逐艦・潜水艦の増産を開始。これら補助艦艇の保有は軍縮条約には明記されていなかった。


しかしこれにアメリカ合衆国・フランスが反発。補助艦艇の保有も禁止・制限するべきだと訴えた。これに大英帝国と大日本帝國・イタリア王国は形だけ賛同し、ロンドン軍縮会議が1933年に開催された。この会議ではロンドン軍縮条約が調印されたが、ワシントン軍縮条約とは違い、大英帝国・大日本帝國・イタリア王国に優位な内容となった。重巡洋艦日英伊18万トン・米仏14万トン。軽巡洋艦日英伊20万トン・米仏16万トン。潜水艦日英伊7万トン・米仏5万トン。ワシントン軍縮条約は既に失効し、アメリカ合衆国はダニエルズプランを再開した。大日本帝國はワシントン軍縮条約失効後も、空母建造に力を入れた。補助艦艇保有数で米仏が少ない理由は、主力艦に力を入れたためであった。そのため、日英伊の建造が停止される事により、さしたる反対もせずに調印した。



そして1935年。ロンドン軍縮条約失効後から、世界は大きく動き始めた。



欧州でドイツは、強力なカリスマ的指導者が画家となり、遂には『永世中立国宣言』を行った。これにより欧州にドイツ・スイス・オーストリアの『永世中立国連合』が成立した。3ヶ国は永世中立国を固持し、世界の恒久平和を求めた。



ソ連は改革の失敗・共産党内部の派閥争い、そしてスターリンの死亡で内戦に発展。ソ連崩壊により、中国では『中国共産党』が瓦解した。これにより中国は蒋介石率いる『国民党』が中国を統一。『中華民国』の建国を宣言した。これにより大日本帝國は『日中同盟』の締結を提案。中華民国政府も賛同した為、1936年にも日中同盟が締結された。




残る列強で争っていたのは、大英帝国とフランスであった。両国は百年戦争から対立していた。特にフランスはアメリカ合衆国と同盟を結んでおり、大英帝国との対立を鮮明にした。スエズ運河や東南亜細亜植民地を巡り、対立はより深刻化した。この争いにちょっかいを出したのが、アメリカ合衆国である。フランス同盟を結んでいる事を宣伝。経済・軍事両方で大規模な支援を宣言。これにオランダも追従した。大英帝国はこの対応に激怒。



さらに1940年末には、アメリカ合衆国・オランダ両国は『レンドリース法』を議会で可決。ただの軍事支援ではなく、戦車・トラック・航空機・大砲、果ては平甲板型駆逐艦まで売却する法案であった。

そして1941年4月に、遂に北アフリカで大英帝国とフランスは激突した。



フランスは委任統治国シリア・レバノンから軍を派遣。イラクの大英帝国軍基地を強襲攻撃。レンドリース法で購入した、戦車・トラック・航空機が大量に配備されており、後に『電撃作戦』と言われる戦法を編み出した。その後フランスは、大英帝国に宣戦布告した。これに大英帝国首相チャーチルは、激昂した。チャーチルはチェンバレン首相の急死により就任した。チェンバレン首相はアメリカ合衆国との対立を鮮明にしており、それによる高血圧が脳梗塞と併発した事が原因と言われている。真相は不明だが。


チャーチル首相は世界帝國のプライドをかけて、立ち上がった。これにイタリア王国も賛同。両国そろって、フランスに宣戦布告した。これに大日本帝國も大英帝国支援を宣言した。そこでチャーチルは『日英伊三国軍事同盟締結』を提案。これは日英・英伊軍事同盟から発展したものであった。1941年7月1日日英伊三国軍事同盟が東京・ロンドン・ローマの各都市で締結。7月13日に大日本帝國はフランスに宣戦布告。仏印インドシナへの侵攻を開始した。


そして7月15日にはアメリカ合衆国が大日本帝國に対する制裁として、対日石油輸出停止を発令。この時期から日米関係は更に悪化した。この石油輸出停止を受けて、近衛内閣は総辞職。後任に海軍大臣であった、山本五十六大将が総理大臣となった。日米関係が邪険になり、開戦が必死と見られチャーチルは大日本帝國支持を明確にするため、東洋艦隊増強を行った。世界に冠たる大英帝国はその海軍兵力を北大西洋・南大西洋・地中海・極東に配備していた。その中で北大西洋と南大西洋の『本国艦隊』、地中海の『地中海艦隊』は主力となる戦艦を集中して配備していたが、『東洋艦隊』は巡洋艦と駆逐艦主体の艦隊であった。そこで増強の柱として、最新のキングジョージ5世級戦艦プリンスオブウェールズの派遣を決定した。これによりプリンスオブウェールズを旗艦とし、レパルス・インドミタブル等を主力とした東洋艦隊がシンガポールに配備されたのであった。



大日本帝國も対米交渉を進めるが、状況は改善されずにいた。これにより山本総理は対米交渉中止を決断。断腸の思いで対米開戦を念頭に置いた作戦計画立案を海軍・陸軍に命じた。



そして12月1日。御前会議で対米開戦が決定。

12月8日に宣戦布告したのである。





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