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戦時改革強行2

『次は貧富の格差についてである。当時大日本帝国での貧富の格差は深刻な問題であり、山本内閣はその格差是正に最優先で取り組んでいた。その方針として重厚長大産業育成による大日本帝国全体での経済成長を成し遂げた。まずは貧困に喘ぐ国民層を救うべく、ある種全体的な経済的底上げも兼ねて重厚長大産業育成は行われた。国際情勢が緊迫している事と、財閥の協力により重厚長大産業育成は成し遂げられ全体的底上げられたが、貧富の格差というそもそもの問題は寧ろ拡大する事になった。1940年時点での大日本帝国に於ける一般国民の月給は580円であった。参考までに当時の各種品目の一部値段を列記しておく。米10キロ2円90銭・うどん1杯50銭・ビール1本80銭・バス初乗り60銭・新聞月額3円・真空管ラジオ80円・映画館入場料2円となる。

それに対して1940年時点での大日本帝国に於ける長者番付1位の年間所得は1億9000万円にもなっていた。財閥の各社社長も年間所得1億円以上になっており、貧富の格差は約17万倍以上にも及んでいたのである。その為に山本内閣が行う新たな貧富の格差対策は[富の再分配]を掲げ、法人税・所得税・累進課税がそれぞれ強化厳格化される事になった。これまでも法人税・所得税・累進課税はあったが、財閥に配慮して税率は低く徴収も厳格に行われていなかった。それにより高所得層は所得の割には、納税額は少なかった。そのあまりにも極端な富の偏在に関しては国民の不満が強まっており、山本内閣としては対策は急務であるとして財閥と協議を行った。財閥側としては[グループ]への移行に次ぐ新たな改革であったが現状の格差は極端に拡大しており、放置を続ける事は社会不安の温床になるという山本内閣の意見にも賛成であった為に、法人税・所得税・累進課税の強化厳格化を受け入れたのである。そして貧富の格差対策の一環として、華族制度についても改革が行われた。華族は皇室の藩屏である為に急進的意見である[華族制度廃止]は選択肢から即座に外されたが、国民の不公平感解消の為に数々の対策が取られた。華族の財産は[華族世襲財産法]という法律によって特別な保護を受けて、この法律では土地や建物などの不動産や、国債などの公債証書が主な保護対象となっていたがその財産保護はそのままに、[富の再分配]により法人税・所得税・累進課税がそれぞれ強化厳格化されて適用される事になった。更に女性が家長であっても爵位を得る事が出来るようにもした。その他数々の特権が華族にはあったが、税の強化厳格化適用と女性爵位相続により国民もある程度は不公平感は解消されたと判断したのである。

次に労働者についてである。農地改革に併せて改革が行われ、これまで確固たる制定が無かった労働者について明確に規定される事になった。それは[最低賃金法][労働基準法][労働組合法]の3種類からなった。これにより内務省社会局労働部には労働基準課が新設される事になった。

まずは[最低賃金法]である。この法律は賃金の低廉な労働者について賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与することを目的としたものであった。これにより事業者は不当なる賃金で労働者を使役する事が明確に禁止された。最低賃金は地域よる物価を考慮し各都道府県別に制定され、しかも年俸・月給・日給に関わらず時給として制定された。これにより雇用形態を問わず、年俸・月給・日給でも時給換算で最低賃金を下回る事になれば厳罰(最低でも執行猶予無し実刑で禁固35 年)をもって処罰される事になった。そして[労働基準法]も制定され労働条件に関する[最低限の基準]を定めた。 雇用契約・労働時間・休日・休憩・年次有給休暇・賃金・解雇・就業規則・書類の保存などが規定され、使用者と労働者との労働契約関係を定めた最も基本的な法律として制定されたのである。また[労働基準法第36条]には企業が従業員に法定労働時間を超えての労働は1日2時間月10時間を上限に時給8割増しで可能とし、休日に労働させる事を全面的に禁止すると明記されていた。これにより大日本帝国に於ける労働基準は週5日8時間労働を上限とし、基本的に残業と休日労働は禁止にしたのである。この厳格な労働基準法により大日本帝国産業は根本的な労働生産性向上と、大規模な機械化を推進する事になった。[労働組合法]は1926年(大正15年)4月9日に公布され、同年7月1日に施行された労働争議調停法により労働者の団結権と争議権が部分的に認められるようになっていたが、労働者の権利向上を図る為に労働争議調停法を廃止し、新たに制定された。これにより各企業財閥も含めて労働組合が結成され、労働者が企業に対して団体交渉を行う事が可能になった。ただし労働組合法には付帯事項が細かく制定されており、反国家・反戦等の国家の根幹を成す事項へのストライキや労働運動を全面的に禁止していた。あくまでも労働組合は所属企業への労働条件に関する要求を行うものてして定義された。これに違反する事は国賊・売国奴とされ労働組合は無条件で解散となり、違反者は外患誘致罪が適用されるという極端な内容でもあった。その為に一部国民からは非難されたが、大多数の国民は労働条件に関しては労働組合により権利を主張出来る事になった為に、概ね受け入れていた。

そして最後が社会保障制度についてである。これにより国民健康保険制度が全面的に改正され[国民皆保険]、年金制度も全面的に改正され[国民皆年金]が制定された。国民皆保険制度により大日本帝国国民が全て等しく医療を受け医療費も8割の補助を受ける事が可能になった。国民皆年金により大日本帝国国民が全て等しく定年後に、年金を受け取る事が可能になったのである。この手厚い社会保障には大日本帝国の財政負担がかなりのものになったが、国民生活向上の為に山本内閣は断行した。大蔵省は当初は戦時中の臨時軍事費支出で大慌てであり、そこに更なる支出となる社会保障制度に反対だった。しかし山本総理兼海相の考えに賛同した賀屋大蔵大臣が責任をもって説得し、最終的には大蔵省も賛成した。だが大蔵省の危惧は杞憂であり、この社会保障制度を含めた大日本帝国の構造的改革により大日本帝国経済は活性化し更に発展する事になり、税収拡大により財政負担は軽減された。しかも中東の油田開発を大英帝国から譲渡された事による開発が成功し、膨大なオイルマネーが舞い込み財政負担は無くなる事になったのである。』

小森菜子著

『帝國の聖戦回顧録』より抜粋





山本総理兼海相が帝国議会に提出した『帝国改革法案』は、即日採決され成立した。立憲政治同盟は法案が社会主義的要素が強すぎるとし、社会大衆党は議論が性急過ぎると当初は反対したが、内容が国民生活に直結するものばかりであった為に最終的には賛成に回った。

戦時中という状況に於いて強行された改革であったが、この『帝国改革法案』により大日本帝国は見違える程の発展を迎える事になったのである。後の学者達は大日本帝国を語るうえで次の様に評している。『大日本帝国は国家形態は立憲君主制でありながら、経済は資本主義経済とある種統制経済を行い、福祉政策は強固なもので手厚く社会主義的平等性を担保している。このような汎ゆる形態と思想を同居させれる事が、大日本帝国が大日本帝国たる所以であろう。』



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