井の中に堕とされたおたまじゃくし
私が何も持たされず空からぽいっと産まれ落ちたのは、日本の真ん中。
大きな湖が本体なのではないかと思うような、あの場所だ。
兜を被ったあの可愛らしい猫に会うことになるのは、もっとずっと後のことだ。
そもそも、私が産まれた時分にかの猫が存在していたのかは定かではないし、調べる気もないが。
そんな場所で産まれた私は、大きな病気もせずすくすくと元気に育ったそうだ。
そうだ、というのもこの頃の記憶が私にはほとんどない。母が何度も言っていたから知っているだけで、実際にはどうだったかなんて検討もつかない。
一つだけ記憶に残っているものがあるとするなら、幼い私と若かりし母、そして父らしき男が軽トラに乗って山に向かっている。
断片的で、曖昧な、そんな風景の記憶だ。
とはいえこれも、「夢だったんじゃないか?」と言われたら「そうかもしれない」とすんなり頷いてしまうくらいには、本当に曖昧な記憶である。
父に関しては、顔も声もどんな人間だったのかすらも、何もかもが分からない。思い出せないというより、知らないと断言できるほどに分からない。
何故こんなにもこの頃の記憶が曖昧なのかというと、私が物心つく前に父と母は離婚していた。
父はとんでもない男だったらしい。
酒癖が悪く、酔えばたちまち攻撃的になり、暴力を奮うわ、よちよち歩きの私にすら物を投げようとするわの凶暴っぷり。
その上、吠える飼い犬を極寒の中、外に放り出したり。びっくりして走り出した犬は車に轢かれて死んでしまったらしい。
天性の屑である。申し分ない屑である。
酔っていない時はかっこよかったのだと、母は語っていた気がするが、ここまで綺麗な屑だと全てが台無しだ。ギャップ萌えの範疇を遥かに超えている。
正直、母の見る目のなさに今なら辟易するが、私も見る目があるとは言えない人生を送ってきたので、そこは何も言えなかったりする。
まぁ、そんなこんなで危険を感じた母が父の元から逃げ出したのは、私が二、三歳の頃のことだ。
ここが、全ての分岐点だったのだと今では思う。
産まれたばかりのおたまじゃくしは、ぽとりと井の中へと堕とされることになる。
そこは、暗くて、じめじめと湿っていた。