短編 言葉
書いてみたいなと思った文の続きです。
青空には雲ひとつ無い。少なくとも私が見ている空には青色しかなかった。遠くからやってきた飛行機が、その上に白い色を置いていき、青と青に分割していった。
父へ「華道を習ってみたい」と伝えたら、答えは「他のものじゃダメなのか?」だった。ソファーに深く座り、近代的な老眼鏡をかけて新聞を眺めていた目が、いつの間にか私の顔の中心を捉えていた。なにかしら習ってみてはと言っておいて、いざやってみたいと伝えると、反対でもなく賛成でもない。丸でも三角でもない中間の回答に、気がつくと私は部屋を飛び出していた。
ゆっくりと三回、ドアをノックされる。この音は母が心配でもしてやってきたのだろう。ベッドの上で枕を抱えながら、ドアを開けるべきか、返事をするべきかと考える。おそらく、母は慰めの言葉か……仕方ないじゃないと諦めるような説得の言葉を投げつけてくる。今の私はそれをうまくキャッチ出来ない気がする。スリッパの音が遠ざかるのを聞いて、背中からベッドへと倒れ込んだ。
結局、何と伝えてもその回答を用意していたのかも知れない。自分が思い描く習い事……ヴァイオリンやピアノなど、コンクールで受賞する可能性があるものを習わせて、娘が取ったんですよと自慢したかったのかも知れない。父の考えが分からないので、こんな事を考えるのも時間の無駄だった。
分割された青と青の境目、白い色はずっと滲むことがなく、お互いが再び一つになるには時間が必要だった。
予鈴が鳴り教室が騒がしくなる。前期のテストが近づいてきたこの時期に、空を見上げる余裕のある生徒は少なかった。来年は大学受験だというのに習い事をしたいというのか、と厳しい口調で叱る父の姿が見えたような気がして、大きく首を振ってその顔を追い出した。
授業には追いついていたし、テストの範囲も既に公開されている。教えるべきところまで教えてしまった先生は、今回も自習の時間に充てるのだろう。日本史のテキストを机に出しつつ、真横の生徒……既に自由時間を満喫して大海へと漕ぎ出した友人を見る。突飛な発言の目立つ彼女は、テストの点数が平均してやたらと高い。もしかしたら家で猛勉強しているのではと考えたが、その寝顔を見ていると、運だけで突破しているような気がしてならない。
テキストを開き、古き世界に身を投じる。当時の人々がどんな考え、思いでどのような行動をしたか。それを踏まえてどのように行動していくべきかを学ぶもの。大人になってから役に立つかはまだ分からないけど、知っているのと知らないのでは違いが生まれてくるのではないかな、と自分に語りかける。新しい事にチャレンジしていくには、過去にどんなものがあったのかを知らないと失敗してしまうかも知れない。
父はあまり自分の話をしてくれない。それは私が知る必要が無いからなのか、難しすぎて分からないと思われているのか。食卓でも学園での話に触れてくれる事も無いし、会社での出来事を語る事もなかった。食器の触れる音が時折聞こえる、そんな食事風景だった。
「まだ寝る時間じゃないですよ」
先生がいつの間にか私の横に立っていて、友人に注意していた。その言葉を聞いて背筋を伸ばし、再びテキストを覗き込んだ。
「ゆくもん、おはよう」
終業のベルからしばらく経っているし、次の予鈴まで起きないと思っていた友人が私の名を呼ぶ。半目となって両手を伸ばしていた。その唇の端からはかすかに光る何かが溢れており、机へと一直線に到着していた。
「悩み事の匂い、さては……恋だな!」
テスト以外ではあまり当てにならないであろう直感で、悩んでいる事を言い当ててくる。服の袖口で乱暴に顔を拭っていて、白い長袖のブラウスが「こんなものを吸収するために生まれてきたのではない」と反論するように半透明となっていた。
彼女に相談してみたらどうなるんだろう。ふとした思いつきに一瞬実行しかけたけど、予鈴も近い。そもそも、華道をやってみたいんだ、と言われた側もどう回答したら良いか悩んでしまう。喉まで出かけた言葉を一度飲み込み、先程の問いに「恋じゃないよ」とだけ返事する。
放課後の陽射しはまだまだ強い。最後の一冊を鞄へと詰め込み終わると、横を振り向く。
目線を合わせるつもりではなかったけど、視線が重なった。じーっと私の顔を見つめるその視線は、「お主の考えている事を当ててみせようぞ」と言っているように、私の目を見ていた。
「で、何の悩みなの?」
「ん?」
悩んでいるというのを見透かされた事への驚きと、今日一日考えて何も答えが無かった事が、間抜けな返事となって喉を通り抜けた。
「恋じゃない、としたら悩みの部分はあってたのかなーと、なんとなく」
確かに否定はしていなかった。
「さっきの話の続き、なのかな」
「そうとも。ささ、なんでも話してごらーん」と両手で顔を仰ぐようなポーズをする彼女。
私は彼女へ、もう遠い日の事のように思っていたその感情を、ぶつけた。
「家庭環境? というのは分からないので置いておーく」
「はぁ。」
「んで、やっちゃえばいいじゃん」
やっちゃえば、というのは華道のことだろう。
「試しにさ、その親父の鼻に花を……むふ」
自分で言った事が面白いのか噎せるように笑う彼女。しかし、確かに教室に通わなくても出来るのかもしれない。それは考えてもなかったし、出来るのかどうかは分からないけれど、調べてみることは出来る。
「やったもん勝ちってのは、やったもんしか勝てないからなのだよー!」
がばっと立ち上がり、見えない何かにガッツポーズし続ける彼女。「じゃあ図書室に行くから」と敢えて冷たく聞こえるように言いつつ、心の中で「ありがとう」と唱える。
ドアが閉まり切る前に、「がんばれよー」という彼女の声が聞こえた。
華道に必要なもの、自宅で出来る生け花。図書室のノートPCで検索すると幾つか蔵書があることが分かった。示された棚へと移動し、目的の本を発見した。目次に「準備するもの」の項目を見つけると、そのページを開く。
いつの間にか走り出していた。学園から家までは車で送迎されるくらいの距離なのに。自分の足で走りたかった。新しい発見を自らの手で実現させたい、今の自分に出来ることをしたいという思いが、このスピードに乗っている。
ぜい、ぜいと鳴る肺の動き程度では私の思考を邪魔する事は出来ない。ドアを開け放つと同時に母へと叫ぶ。
「お母さん、剪定用のハサミ、どこにある?」
居間に居たであろう母は何事かと飛び出し、私の目をじっと見る。
「ええと、確か物置にあるけれど」
「庭の花ちょっと貰うね!」
返答は待たなかった。もし怒られたとしても、その時は……その時だ。
物置のドアを開けるとすぐにハサミを見つけた。母と一緒に植えた中から今の私が欲しいと思う花を、出来るだけ痛くないようにカットする。しぼみかけている花もあったけれど、まだ頑張って開いていた二輪を、優しく片手に持った。
ドアを開けてキッチンへと向かう。小さかった頃に買って貰った――子供用のシャンパンを飲むための、もう使わなくなったグラスを手に取る。水道水でごめんねと呟きながら、グラスへと入れた。そのままキッチンのテーブルへと置くと、もう一度花を見る。
青い、中心部分が透き通るような白さの花。今日見ていた青空より青い花。今度の白い色は分断されるためのものではなく、全ての花弁を繋ぐための色。
剪定バサミで丸みを帯びた葉っぱを切り落とす。一枚、一枚と落ちてゆく葉にごめんねと言いながら。
花をグラスに挿してみると全く別の方向を向いてしまう。グラスの底が丸くなっているので中々安定してくれない。そして、思い出した。
自分の部屋の引き出しにしまっていた、あの針金を引っ張り出す。階段をドタバタと駆け上がるこの音に母は驚くだろうけど、今はただ見守ってほしい。じんわりと体温に馴染むその一本の線を持って、キッチンへと戻った。
母には事前に何かしら言っておくべきだったし、お迎えの車が不要ならメールしてねと言われていた事も反省している。そして、花のことは父が触れるまで切り出さないで欲しいと伝えた。
食卓の丁度中央、父と私の中間地点にグラスを置き直すと、父の帰りを待った。
父の乗る車の音が近づく。同時に、どうなるのかという期待と不安が胸の中で渦巻いた。玄関の開く音と父の部屋のドアが閉まる音。数分の間があり、父が部屋からこちらへとやって来る。
普段着に着替えた父が食卓の上をちらりと見て、椅子へと座る。
「……買ったのか」
「いいえ、この子が自分で」
「……そうか」
短いやり取り。父と母の中ではそれで十分なのか、音は途中で止まる。
しばらくの沈黙が続き、ふと父が食器から目線を上げた。こちらを見ている。
「知っているのか」
何のことを指しているのかは分からない。眼鏡の奥で回答を待つ二つの目に、私は何も答える事が出来ない。
ただ、何かを思い出すような。やや右上の何かを見るような目の動き。
「……絆、か」
納得するかのような、自分へ言い聞かせるように短く頷く父に、何も聞くことが出来ない。
「……花が、好きか」
今度の問いには、自信を持って答えられる。
「はい」
「……いいぞ。行っても」
いつ言い出そうか迷っていた、ケンカの後でごめんと言い出すタイミングが掴めない子供のような、ぼそっと呟くような声。父の表情からは既に硬い何かが消え去っているように見える。
グラスの中の二輪の青い花が、父を見つめていた。
なんか、雑になってしまったような気がする。書きたいことを詰め込み過ぎたような。集中力がそっちに引きづられて、細かい言い回しが出来ていないような。恐らく、ちょっと時間をあけてから微調整すると思います。