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エースの背中  作者: 滝川誠
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1.紺色のハチマキの彼

 きついよ。

 疲れたよ。

 喉がカラカラだよ。

 頭も熱いよ。


 っていうか全部が熱い。

 もう嫌だ。やめたい。楽になりたい。早く終わってよ。


「頑張れ!あと少しだよ!」


 その声は凄く遠くから聞こえた。気持ちいい夢の中から叩き起こしてくる声みたいだ。


 目の前には上り坂がある。こいつを上り切ればこの地獄から解放される。早く終わらしたい。


 見上げると、その残酷な傾きと途方のない長さに絶望する。坂の頂上で長閑(のどか)に構えている青空が憎らしい。


 もう無理だ。何でこんなきつい思いをしないといけないんだ。いっそのこともうやめようかな──────。


 いや、でもそんな無責任な事はできない。独りで走っているわけじゃない。ここまで仲間が走ってきた。その想いも背負ってるし、次の中継所で待つ賢人(けんと)にこの想いを届けないといけない。


 その賢人はこの坂の向こうで待っている。賢人に繋がないといけない。この、肩に掛かっているタスキで繋がれた想いを──────。


 その時、背中に気配を感じた。


 トッ、トッ、トッ、と小気味の良い足音がする。息切れは静かだった。憎いほどに僕の状態と違う。軽快な走りだった。足音だけでも分かった。


 スーッと視界にその足音の主が現れた。まるで風に運ばれてきたみたいだった。あっという間に現れて、あっという間に僕の前を走っていく。紺色のハチマキが風ではためいている。そうやって見ている間も彼の背中はどんどん離れていった。あまりにも華麗なので、一瞬だけ疲労を忘れた。


 横にぶれない真っ直ぐに伸びた走りだった。


 すらっと伸びた脚はしなやかに回転して、尚かつ鋭く地面を蹴る。まるで意思を持った(むち)みたいだ。人の走りでこんな見惚れたのは初めてだった。彼の走りは異常だった。今が走り始めたみたいに手足の勢いが凄い。彼の周りだけ何もないように思えた。


 空気も、重力も。


 坂道に入っても彼は尚も軽快に進んでいった。


 彼の走りを見て思った。


 意外と楽な坂道なのかもと。



 坂道を踏んだ瞬間だった。 



 うっ、と筋肉が呻いた。


 圧し掛かる圧力が半端じゃない。大男に押さえつけられているみたいだ。腹は曲がって、脚も伸ばせなくて、どんどん僕の身体は縮んで丸まっていく。脚の動きはひどくのろい。もう歩いているぐらいのスピードだ。苦しい。曲がった身体は空気をうまく取り込んでくれない。


哲哉(てつや)!顔を上げろ!苦しくても前を見ろ!」


 誰かの声がする。


 聞き覚えがあった。


 真後ろからのバイクのエンジン音で思い出す。


 その声は父だ。


 イラっとした。またバイクで来てんのかよ。あれほど言ったのに何で言うこと聞かないんだよ。


 僕は顔を上げた。空気が入ってきたように感じた。でも相変わらず苦しい。


 前を見てギョッとした。前の彼の姿は凄く小さかった。


 信じられなかった。


 彼はもう坂の頂上にいた。そして頂上の向こうへと消えていく。


「頑張れ!あと半分!もう一回これを頑張ったら終わりだぞ」


 愕然とした。


 まだ僕は半分。


 前の彼はもう坂道を越えている。あまりの力の差に僕は途方に暮れる。馬力が違う。力量の差に僕の心は簡単にへし折れた。脚がさらに重く感じた。もう坂道を転げ落ちてしまいたかった。


「止まるな!止まったら終わりだぞ!」


「ばう!」


 犬の鳴き声。やっぱりあいつも連れてやがる。


 むかっ腹が立った。歯を食いしばって脚を動かした。小さかった空が少しずつ広がってくる。後ろから聞こえる父と犬の声がやかましい。でもその声が僕の背中を押してくれているのは間違いない。



 あともう少し、あともう少し。



 心の中で唱えながら僕は頂上へ向けて走り続けた。


「もう少しだよ」

「ラストラスト!」


 沿道の声援も多くなっていた。ゴールは近い。もう頂上だ。その向こうは青空が広がっている。僕はその青空に向かって飛び込む──────。


 身体が急に軽くなった。肺に溜まっていた息がブワッと青空に向かって吐き出されていった。新鮮な空気がスーッと入っていく。



 やっと終わった。



 強い風の歓迎を全身に受ける。なだらかに伸びる下り坂の先には、たくさんの家が広がっていた。


「まだだ!あともう少し!諦めるな!」


 その声で我に返る。前を見ると下り坂の先に人だかりがある。


 賢人が手を振ってる。あそこがゴール。もう少し。幸いにも後は下り坂だけ。もう下りに身を任せるしかない。とにかく転ばないように意識して前に進んだ。手を広げる賢人の姿が少しずつ大きくなっていく。賢人のよく通る声も聞こえてきた。


「タスキを外せ!」


 そうだった。タスキがあった。僕は肩に掛かったタスキを外して落ちないように拳を作る。


 賢人が腕を伸ばしてくる。そこに向かって腕を伸ばす──────。


 手からタスキが抜けていくと、ダッと賢人が勢いよく飛び出した。背中はどんどん小さくなっていく。崩れ落ちそうになったけど、すぐに誰かが支えてきた。


「ここは危ないから。ほら、立って」


 その声の人に連れられて歩道に移動させられた。その人は適当に僕を地面に座らせると、さっさと戻っていった。


「2番!9番!6番!」


 拡声器の大声が空に響き渡っている。


 歓声や怒鳴り声に拍手と、様々な応援が中継所を賑わせていた。


 その中継所からちょっと離れた所に父がいた。


 バイクから降りた父が係員に怒られている。そのバイクのサイドカーには黒い柴犬がいる。舌を出して恍惚な顔でユニフォーム姿の男に頭を撫でられていた。



 紺色のハチマキ。



 僕を抜いた美しい走りの選手だった。


 楽しそうに柴犬を撫で続ける彼は、さっきまで走っていたとは思えないほど涼しい顔をしていた。

 


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