第四章・夢見のミサンガ
其の壱
近鉄南大阪線大阪阿部野橋駅。
賑やかな界隈を連れ立って歩く蘭子たちがいた。
それぞれにアイスクリームなどを頬張り、小脇に写生道具を抱えている。
「まったく……。美術の田丸の野郎!」
「ほんとに高校生にもなって、動物園で写生だなんて、何考えとんじゃ!」
「幼稚園児や小学生ならともかくだよ」
「じろじろ見られて恥ずかしかったよ」
「いつか焼き入れたるで!」
彼女達が息巻いているのには訳があった。
本日の六時限目の授業は、国語で担当教諭の都合で自習になるはずであった。六時限目であるから帰ってしまうことも可能であったのである。
ところが五時限目の美術教諭が、国語教諭の許可を貰って、二時限連続の美術にしまったのである。そして天王寺動物園での写生授業となったのである。
本来なら楽しいはずの自習時間が奪われてしまったのだから、彼女達が憤慨するのも当然であろう。
「田丸の馬鹿やろう!」
智子が叫びたくなるのも無理からぬこと。
田丸教諭の悪口を言い合いながら歩き続ける一行。
ビルとビルの狭間の窪地に露店を出している人物がいた。仲間の一人の京子が気がついて近寄ってゆく。
「あら占いかと思ったら、アクセサリー屋さんね」
小さな机を黒いシーツで覆って、その上に数点のアクセサリーを並べているというみすぼらしいものだった。
「なんだ、これだけしか売っていないの?」
「はい。これだけです」
「売れているの?」
「いえ、売るために出しているのではないのです」
「売りものじゃないの?」
「はい。差し上げるためのものです」
「どういうこと?」
「つまりです。こんな暗い窪地に潜むようにしている私にあなたは気がつかれ声を掛けてくださった。霊波の共振というか、霊感波長が似通っているのです。これは私とあなたの間に共通するインスピレーションがあったからです。これらの品々はそんなあなたに幸せになってほしいとの願いから差し上げている夢見のアクセサリーなのです」
「夢見のアクセサリーね……」
「どうぞご遠慮なくお受け取りください。どれでも一つお気に召したものを」
改めて机の上のものを品定めする京子。
といっても指輪、ネックレス、イヤリング、ブローチ、ミサンガの五点だけしかない。
「このミサンガでいいわ」
品物を取り上げて手首にはめてみる。
「でも、ただで貰うというのもね……」
と言いながら、財布を取り出して、
「はい、五百円でいいわね」
机の上に五百円硬貨を置いた。
「そうですか……。では、ありがたく頂いておきます」
気にも留めずに普通に受け取る露天商だった。
「ありがとうね」
手首にはめたミサンガをくるくると回しながら、その場を立ち去る京子。一同もその後についていく。
「五百円は高かったんじゃない?」
「いいのよ。こういうのって気持ちよ。気持ち。何たって夢見のミサンガなんだから」
「まあ、京子がそう思っているのなら、どうでもいいけどね」
ワイワイガヤガヤと、その場を離れていく一同。
そして客のいなくなった露天商はというと……。
ニヤリとほくそ笑んだかと思うと、スーと姿が消えてしまった。
まるでそこには誰もいなかったような侘しい窪地があるだけだった。
ふと立ち止まり、振り返る蘭子。
何か気配を感じたようであった。
「蘭子、なにしてんのよ。行くよ」
急かされて歩き出す蘭子だった。
其の弐
大阪府立阿倍野女子高等学校。
一年三組の教室に、女子生徒がそれぞれにグループを作り談笑している。
いつもの朝のひとときだった。
そこへ一際明るい表情をした京子が入ってきた。
「おはよう! みんな」
「あら、ずい分ご機嫌そうじゃない」
「それがさあ、当たっちゃったんだ」
「当たった?」
「うん、スクラッチカードの宝くじだけど、一万円」
「へえ、一万円か。それでもいいよね」
「昨日、アクセサリー買ったでしょ。皆と別れた後、宝くじ売り場の前を通った時、何となく買ってみたのよ。そしたら大当たり、元を取り戻しちゃった」
「幸運のミサンガだってわけか」
しばらくミサンガの話題で盛り上がるクラスメイト達だった。
ただ一人蘭子だけが、京子の手首のミサンガを見つめながら怪訝そうにしていた。
放課後、もう一度露店商のところへ行ってみようと、昨日の場所に向かったクラスメイト達だったが、その窪地にはあの不思議な露天商の姿はなかった。
「いないわ……」
残念そうな京子。
「やっぱりインチキなのよ。だから同じ場所には店を開けなくて移動しちゃったんだと思う」
「そうね。宝くじが当たったのも、単なる偶然なのかも」
「そうかしら……。あの人、別にお金を取るつもりはなかったんだから……」
「毎日露店を開いているわけじゃないのかもよ。その日暮らしの気ままな生活で、気が向いたらまたここに戻ってくるかも知れないよ」
蘭子はグループから離れて、窪地に入って屈み込んで、何かを捜し求めている風だった。
「やはり、妖気のカスがこびりついている……」
霊感の強い蘭子だから感じられる微かな気配だった。仮に妖魔だったとしたら、跡形も気配を消し去ることができるはずだ。
「中級妖魔というところか……」
「ところで蘭子、そこで何してるの?」
智子が不思議そうに尋ねる。
立ち上がって、皆の所へ戻る蘭子。
「何してたの?」
「いえ、何でもないわ」
とは言ったものの、妖魔がいたということは、誰かが犠牲になるかもしれない。その可能性が一番高いのは京子である。
横断歩道のある交差点の手前で立ち止まっているクラスメイト達。歩行者信号は赤である。それが青になって渡り始める一行。
その時だった。
一台の自動車が、一行の列に猛スピードで突っ込んできたのだ。
「危ない!」
誰かが悲鳴のような金切り声を出した。
まさしく京子めがけて突進していた。
交わしきれない。
誰しもがそう思ったに違いない。
奇跡が起こった。
自動車が急激に右にそれて、横転しながら信号機に激突したのである。
呆然と立ちすくむ京子。
一体何が起こったのか、理解できないでいるようだった。
其の参
「119番だ」
「110番は、俺がしよう」
「自動車には近づくな! ガソリンが漏れているぞ、爆発の危険がある」
野次馬が次々と叫んでいる。
「しかし、今の見た?」
「そうよね。車が急にカーブして激突したのよね」
「直前に女の子に気が付いて、急ハンドル切ったんなら、良くあることだよ」
目の前で起こったスリリングな事故に、よほど急いでいない者以外は立ち止まって野次馬している。
「運転手は無事か?」
「この有様じゃ、即死だろ」
「そうね。こうもめちゃくちゃに壊れていたんじゃ、助けようにも助けられないよ。レスキュー待ちだね、生きていればの話だけど」
さて、京子はというと、横断歩道にしゃがみ込んで、肩を震わせていた。
いつまでもこうしているわけにもいかない。蘭子が肩を貸して立ち上がらせて、横断歩道を渡っていった。
やがて四方からサイレンの音が近づいてくる。
事故現場に到着したパトカーから降りてきた警察官は、事故処理班、交通整理班、事情聴取などに分担して、それぞれ活動をはじめた。
救急車も追っ付けやってきたが、
「こりゃだめだな。レスキューを呼ばなきゃだめだ」
一目見て、自分達では手の施しようがないと判断したようだ。
「それよりガソリンが漏れている、化学消防車もいる」
「もしもし、運転手さん、聞こえますか?」
恐る恐る近づいて、自動車に閉じ込められた運転手に向かって、声を掛ける警察官。
返事はなく身動きしないようだが、火を噴きそうな状況では、車の中に潜り込んで脈を診ることもできない。
追っ付け救急車とレスキュー車、そして化学消防車が到着した。
「事故を目撃した方はいらっしゃいますか?」
警察官が野次馬に向かって質問している。
「そんなもん。ここにいる連中みんなが目撃しているよ」
「白昼往来の事故だかんな」
「それでは、一番近くで目撃した方は?」
「それでしたら、そこの女子高生達ですね。何せ危うく轢かれそうになったんだから」
「轢かれそうになった?」
「赤信号無視の自動車にね。奇跡でしたよ」
「判りました。早速聞いてみましょう。おい、君はこの人や他の人から証言を取ってくれ」
別の警察官に指令して、蘭子たちに近づいていく。蘭子たちが未成年だし、より多くの証言を得るためだろう。できればこれだけ大勢の野次馬がいるのだから、いろいろな角度からの目撃証言も欲しいところだ。
「君達いいかな?」
やさしく微笑みながら話し掛けてくる警察官。轢かれそうになったと聞いて、怖がらせないようにしているのだろう。
「事故の証言を取りたいんだけど、話せる人はいるかな?」
蘭子が手を上げた。
「私がお話しましょう」
「お名前と住所、それから学校名もお願いします」
「阿倍野女子高校一年生の逢坂蘭子です。ここにいるのはみんなクラスメイトです。住所は阿倍野区……」
「阿倍野女子高というとすぐ近くだね。それで事件の様子は?」
「この横断歩道の反対側で赤信号で待っていました。歩行者信号が青になったので、渡り始めた途端でした。突然猛スピードで自動車が交差点に突っ込んできたんです」
「交差点に突っ込んできたんだね」
「はい。あちらの方からです。良く『黄色当然、赤勝負』とか言われるでしょう? 信号無視の暴走で横断歩道を渡る歩行者にも視線に入っていない。そんな感じでしたね」
「黄色当然、赤勝負……ですか。なんとなく状況が理解できそうです」
「横断歩道に差し掛かる直前でした。突然、車が右へ急カーブして、横転しながら信号機に激突しました」
「なるほど、急ハンドルで横転ですか……。ブレーキ音とか聞こえませんでしたか?」
「いいえ、聞こえませんでした」
「聞こえなかったと……。確かにブレーキ跡はなさそうですね。ブレーキとアクセルを踏み間違えて、暴走ということが良くありますが、どれくらいのスピードが出てたみたいですか??」
「どれくらいと言われても、スピードメーターが見えたわけじゃなし、とにかく全速力という感じでしたね」
「全速力ねえ……。やっぱり踏み間違えたのかなあ。横断歩道を渡る君達に気がついて、目一杯ブレーキを踏み込んだがアクセルだったとかね」
「さあ、それは判りませんけど」
それから身振り手振りを交えての実況検分に入った。自動車がどういうコースを走ってきて、どのように急カーブして、どんな具合に横転して信号機に激突したか。チョークで自動車の推定軌跡を描き、メジャーで測量していた。
そんな間にも、レスキュー車の救出作業は続いている。
運転席を下に横転して、信号機にめり込むように激突しているために、極度に困難な状態である。まず自動車を信号機から引き離して、横転した状態を起こしにかかる。そして運転席側からカッターや溶断機でドアを外して運転手を救出するのである。
化学消防車は、こぼれたガソリンなどに引火しないように、中和剤を撒いている。
其の肆
大阪府立阿倍野女子高等学校グラウンド。
体育の授業で、蘭子達が準備運動している。学校指定のジャージスタイルである。
「集合!」
体育教諭が笛を鳴らして、鉄棒前に一同を呼び集める。
「今日は、鉄棒の蹴上がりのテストをする」
「ええ、テスト!」
「いきなり、ひどいよ」
黄色い悲鳴が沸き起こる。
「蹴上がりができなければ、逆上がりでもいいぞ。何でもいいから鉄棒に這い上がれ。できた者は、一対のバスケットゴールを使って、自由にプレイしてよい。できない者は、できるまで特訓だ!」
「きゃあ! 横暴教師よ」
「セクハラよ」
「誰がセクハラじゃ。勝手なこと抜かすんじゃない。出席順一番からはじめるぞ。石川!」
「はい!」
一番の石川久美は、一度目は失敗したものの、二度目にはくるりと鉄棒に這い上がった。逆上がりである」
「よし、合格」
合格したものの一人では何もできないので、少し離れた所に腰を降ろして、他の合格者が出るのを待っている。
「あたし、鉄棒苦手なのよね。小学校の時に結局できずじまいだった」
「わたしだってそうよ」
「ご同輩!」
京子達が抱き合って、苦しみを分かち合おうとしていた。
「逢坂蘭子」
名前を呼ばれて蘭子が鉄棒に向かう。
精神統一をはかってから、リズムカルに身体を動かす。美しいフォルムを見せて、鉄棒の上に這い上がる。反動を利用した完璧な蹴上がりで、そのまま大車輪に移行できるくらいの余裕があった。
「さすがだな、逢坂。合格だ」
「ありがとうございます」
律儀に礼をして、久美の横に並ぶ蘭子。
何を隠そう。蘭子はスポーツ万能だったのである。特に武道と呼ばれるスポーツには並々ならぬ力量を持っている。小学校の時は柔道、中学校の時は剣道と大阪大会の個人戦では、いつもベスト4に勝ち上がっていた。
そして高校生になった今は、弓道に所属しているが、往年の活躍を知っている先輩達から、剣道部や柔道部への入部を勧められている。
京子の番がやってきた。
彼女はできなかった口らしい。おどおどと鉄棒に手を掛けるが、なかなか動こうとはしない。小学校の時にできなかったことは、大人になってもできないままというのは良くあることである。自転車に乗れないという大人も少なからずいる。
ともかく蹴上がりか逆上がりである。
できなければ居残り特訓。バスケットチームへの方には回れない。
「京子、頑張れ!」
智子が声援を送る。
京子が観念して動き出す。
するとどうだろう。
あれだけおどおどしていたのに、軽く体重を持ち上げて鉄棒の上に這いがったのである。
信じられないといった表情の京子であった。
「ようし、合格だ。次!」
ゆっくりと鉄棒を降りて、蘭子のそばに腰を降ろす京子。
「できたじゃない。おめでとう」
祝福する蘭子の言葉にも、呆然とした表情の京子。
その時、智子は鉄棒に這い上がれずに悪戦苦闘していた。
「おい。鴨川、本気出しているのか? おまえができないはずないだろう」
「そうなんだけど……。おかしいな」
智子は学業はとんとサッパリだが、体育にかけてはずば抜けた運動神経と反射神経を持っていた。中学生の時には、テニス部のキャプテンを任され、この学校でも先輩に誘われてテニス部に入部。一年生ながらも試合に出場して好成績を収めている。
「深夜映画の見すぎで疲れてんじゃないのか?」
「そうかも……。BS2でいい映画やってるから」
「とにかく不合格だ。居残れ!」
「ほえ~」
だらしない声を出して居残り組みに入る智子。
一通りのテストを終えて、居残り鉄棒組みと、合格バスケット組みとに判れての授業がはじまった。
近鉄南大阪線大阪阿倍野橋駅。
構内の自動改札口を通る京子がいる。
彼女は電車通学である。
3番ホームに発着する準急か急行電車に乗り、河内松原駅で降りる。急行なら一駅だが、準急なら途中駅で急行通過待ちがある。急行は早いが混雑しているし、準急は遅いが座れることが多い。その時の体調や荷物量、急いでいるかどうかでどちらかに決める。
丁度、準急が発車待ちで停車しており、しかも後続急行のない河内松原先着なので、都合よく乗り込むことにする。座席に腰を降ろし、鞄から本を取り出して読もうとした時に、はす向かいに憧れの人が座っているのに気が付いた。
同じ阿倍野区にある大阪府立住吉高等学校の二年生で、両校との間には古くからの交流があって、生徒間の交流も盛んである。
京子は、演劇部の交流会において、顔見知りになっていた。
相手と視線が合った。
「あれ……?」
明らかに京子に関心を持ったようだ。
席を立ってこちらに向かってきて、京子の前に立った。
「君、阿倍野女子高校の演劇部だろ?」
「は、はい。そうです」
「名前を聞いてもいいかい?」
「真谷京子です。一年三組です」
「そうか、君も近鉄通学組みなのか……。駅はどこ?」
「河内松原駅です」
「僕は河内天美駅だよ。隣に座ってもいいかい?」
「はい、どうぞ」
礼儀正しい少年だった。
大阪府立住吉高等学校は公立にしては制服がなく、髪型自由でピアスも可という粋な校風である。平成17年のスーパーサイエンスハイスクールの指定校となっている。
それから二人は演劇の話で盛り上がった。
憧れの人と知り合え、仲良く慣れそうな雰囲気に幸せそうな京子であった。
出会いがあれば、別れもある。
そばにいたカップルが言い争いをはじめた。
「もうあなたとは付き合わないわ。さよならよ」
「ちょっと待てよ」
電車を降りる女性と追いかける男性。
「いい加減にして!」
男性の頬に力強い平手打ちを食らわして、さっさと改札口から出て行った。
取り残され呆然と立ち尽くす男性。
其の伍
数週間が過ぎ去った。
演劇を通して知り合った少年と急速に仲を深める京子。時刻を合わせて同じ電車に乗り合わせるようにして一緒に通学するようになっていた。休日には劇場や映画を一緒に観覧したり、公園を散策したりしている。
しかし、他人の口に戸は立てられない。
二人が一緒にデートしているのを見たという噂話が、阿倍野女子高校及び住吉高校の生徒達の間に広がるのも早かった。
情報屋の芝桜静香が、登校してきた京子に駆け寄ってくる。
「聞いたわよ、見たわよ。住高の大条寺明人君と交際してるんだって?」
興奮を身体中にたぎらせて抱きついてくる。
「ちょ、ちょっと」
とまどい気味の京子に、おかまいなくマシンガンのような質問攻めを聞いてくる。
「なりそめは何?」
「いつから付き合っているの?」
「毎日一緒に通学しているの?」
隠してもしようがないと観念した京子は、クラスメイトの前でなりそめや近況報告をしたのである。
「うらやましいわ。大条寺君といえば、住高演劇部の花形的存在で、ハムレットをやらせるならこの人との名声も高い。何でも父親が宝塚の劇場監督、母親がパリオペラ座の名優。両親から演劇の素質を受け継いだ期待の星との呼び声もあるわ。
「へえ、そうなんだ」
一同目を見張り、耳の穴をかっぽじいて聞き入っている。
「でもいいのかな……」
蘭子がぼそりと呟いた。
それだけの有名人となれば、いわゆる『取り巻き』と呼ばれる連中が付きまとっているのが通常である。嫉妬や羨望という危険ともいえる状態にさらされることになる。『明人の恋人』と自称する人物もいるかもしれない。そういった連中の耳に噂話が流れたら、逆上して何をするか判らない。
よけいなお節介かも知れないが、一応京子に注意を喚起した。
「お付き合いもいいけど、控えめにしておいた方がいいわよ」
「それは考えすぎじゃない?」
「そうそう、考えすぎだよ」
「しかし……」
皆は一様に考えすぎだと言う。
蘭子は腑に落ちない点があるのに気が付いていた。
京子があの露店商に会ってミサンガを手に入れてから、運が回りはじめていること。
「あの露店商……」
確かに妖気を身にまとっていた。
霊感波長が似通っているとも言った。
京子が幸せになる度に、誰かがその犠牲になっているのではないかと、思うようになっていた。
交通事故を起こした運転手。あのスピードで九十度に近い急カーブなど科学的に不可能だと、事故調査に当たった警察官も言っていた。
体育の鉄棒のテストで、できないと言っていた京子が合格し、体育好きの智子が不合格になった。その後、智子は逆上がりを簡単に披露してくれた。
そして大条寺明人の件では、嫉妬にかられる女子生徒が大勢いるはずである。
その他にもまだまだありそうな感じである。
「きっと何かが起こる!」
蘭子は確信していた。
その日はほどなくやってきた。
夕暮れに沈む阿倍野女子高校の校舎。
校門前にたむろする女子グループがいる。見た目にも柄の悪く、学生鞄を持っているところをみると、制服自由の住吉高校あたりか。
そこへ腕時計を気にしながら、京子が出てくる。
演劇部の練習で、こんな時間になってしまったのである。
「来たよ」
顔を知っているらしい一人が声を掛けると、全員が素早く動いて京子を取り囲んだ。
「真谷京子だろ?」
「そうですけど……」
「話があるんだ。ちょっと顔貸しな」
その口調には問答無用という響きがあった。
黙って付いていくしかないようだ。
夜道を連れ立って歩く一行。
「この先は……」
京子は、一行が向かっているのは、阿倍野土御門神社だと気が付いた。
土御門晴代が宮司を務めている神社である。
蘭子がいるかも知れないと期待感が湧き起こる。
この時間帯には、神社内の修錬場で合気道の稽古をしていると聞いたことがある。
境内の人気のない所に連れて行かれる。
「おまえ、最近大条寺君と交際しているんだってね」
いかにもリーダー格と思える生徒が尋ねてくる。
おびえていて声が出ない京子。
たとえ真実だとしても、素直に認めてしまうと、生意気だと思われる。
どうせ知られているなら黙っていた方が良い場合も多い。
「まあ、いいや。ともかく別れてくんないかなあ」
威圧的な態度で迫ってくるリーダー。
「そ、そんな事言われても……」
「ああ、こいつ口答えしよったで、生意気やなあ」
いきなり胸ぐらをを掴まえられて、息が苦しくなって、その手を振り解こうとした時に、手首のミサンガがきらりと輝いた。
いち早くそれに気がつくリーダー。
「ミサンガか。噂聞いているよ。何でも幸福を呼ぶミサンガらしいな」
手下に合図してミサンガを取り上げるリーダー。
「それを返してください!」
青ざめて取り返そうとするが、多勢に無勢である。
悦に入ったようにミサンガを眺めていたリーダーだったが、
「もらっとくよ」
勝ち誇ったように腕にはめた。
其の陸
と、その時だった。
リーダーの表情に異変が起こり始めた。
急速に老いさらばえていったのである。
頬がこけて髪は総白となって、まるで老人のようである。
「困るんだよね……。そういうことされると」
突然、林の中から声が聞こえ、一人の少年が姿を現した。
話題の人、大条寺明人であった。
「明人君!」
思わず駆け出して、その背中に隠れる京子。
「もう大丈夫だよ」
やさしく声を掛ける明人。
しかし不良グループには強い口調で言い放つ。
「さあ、それを返してもらいましょうか。君達には百害あって一利なしの代物なんだから」
百害あって一利なし。
その意味が、この場にいる者には理解ができないようだった。
ただ言えることは、それを手にはめたリーダーが老人のようになってしまったという事実である。
「そのミサンガは、僕と霊感波長の合ったこの娘にしか手首にはめられないのだからね」
霊感波長……?
どこかで聞いたような言葉である。
「その言葉、忘れていないぞ」
修練場の方から、玉砂利を踏みしめながら、巫女服に身を纏った蘭子が現れる。
「おやおや、立ち聞きですか。無作法ですね」
「ひとつ聞きたい。露店商は儲かるか?」
「何のことでしょうねえ」
霊感波長という言葉からも、あの露店商と同一人物であることは確かなようであるが、当人は薄らトボケている。
もしかしたら、大条寺明人という人物に摂り憑いているのかも知れない。
「もう一つ聞いてもいいか?」
「どうぞ」
「人の運命を弄んで楽しいか?」
「さて、何のことでしょうねえ」
「おまえは京子に幸せを与える代わりに、他人の幸せを奪って不幸にしているだろう」
鋭い目つきで、大条寺を睨み付ける蘭子。
すると突然、大声で笑い出す大条寺だった。
「あはは……。なるほど、あなたには隠し立てはできないようですね。もちろん私の正体も?」
「大条寺明人、その正体は悪しき妖魔。摂り憑いたか?」
一般人のいる前で、口には出したくなかったが、認めさせるにはいたし方がない。
「そのとおりですよ。さすがですねえ」
「なぜ、他人を不幸に陥れる?」
「それは簡単ですよ。いくら僕でも無から有は作り出せませんからね。だから幸せを持っている人と交換しているのですよ。もっとも少しばかりの手数料として、何らかの代償も頂いていますけどね。それで私は生きているというわけです」
「そうやって運転手の命も奪ったのか?」
「ああ、あれね。あの事故では、本当は京子さんが一生回復のない植物人間になるはずだったのです。それでは可哀想でしょう」
「良く言うな」
「私と京子さんは、霊感波長が合っているせいか、その未来も見えてくるのですよ。ですから、あの運転手さんと運命を取り替えて差し上げたのです」
「植物人間になるはずだろ。なぜ殺した? それが手数料というわけか」
「ご理解頂いてありがとうございます。そういうことです」
「許せない!」
突然、蘭子たちのいる空間が変化した。
京子や女子生徒達は身動き一つせず、瞬きすらしない。
それまで鳴いていた虫の声、そよぐ風の音も止まった。
まるで時が凍ってしまったかのように。
「ほう。奇門遁甲八陣の結界空間ですか。つまり閉じ込められてしまったというわけですね」
「これで心置きなく戦えるだろう」
「戦う? 僕はフェミニストでして、女性の方とは戦いたくありませんから」
それにしても妖魔にしては良く喋るものだ。
こうした場合、何か弱点があってそれを悟られないように、気を反らそうとしていることが多いものだ。或いは相手の反応を見ながら付け入る隙を見出そうとしている時もある。夢鏡魔人がそうであったように。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前!」
「おやおや、問答無用というわけですか。仕方ありませんね、お相手いたしましょう」
戦いがはじまる。
妖魔の魔法と、蘭子の呪法とが互いに交差して炸裂する。
緒戦は相手の手の内を読みあうせめぎ合いが続くが、妖魔はぴょんぴょんと跳ね回って、はぐらかすように容易に隙を見せない。
まるで本気で戦う意思がないようである。
「白虎!」
式神を召還する蘭子。
地を駆け回る猛虎にして、最も敏捷性が高い。
逃げ回る妖魔を追い込むには一番であろう。
十二天将のうち、この白虎だけは呪法を唱えなくても呼び出せることができる。蘭子が三歳の時だった。晴代が召還した白虎に面白がって近づいて、手なずけて仲良くなってしまったのである。いわゆる霊感波長が共振したというべきだろう。以来、白虎を呼び出しては、その背中に乗って一緒に遊んでいたという。その様子を見た晴代は、蘭子の陰陽師としての並々ならぬ才能を見出し、御守懐剣の長曽弥虎徹と土御門家当主の座を譲り渡す決断をしたという。
其の漆
戦いは一進一退を続けていた。
だが妖魔が見逃していたことがある。
ここが土御門神社だということである。
敷地内には、様々な呪法や道具立てによって常に清浄に保たれ、怨霊や物の怪、悪しき魔物など一歩も入れないようになっている。
白虎の攻撃をジャンプで交わして、地に足を付けた瞬間だった。
「呪縛!」
蘭子が素早く呪法を唱えると、妖魔の足元が輝いて曼荼羅の方陣が現れた。
身動きを封じられる妖魔。
「こ、これは……」
「気が付かなかったろうが、その足元には妖魔には見えない特殊な曼荼羅が描かれているのだ」
「曼荼羅?」
「しかもここは敷地の丁度真中に位置する。結界呪縛は一段と強力だぞ。極楽浄土に送ってやる、仏に帰依してその罪をあざなえ」
密教真言を唱え始める蘭子。
右手を前に水平に伸ばして、広げた指先を少しずつ折り曲げていくと、それにともなって方陣が狭まっていく。
苦しみもがく妖魔。
そこへ白虎が飛び込んで最期の一撃を与えた。
やがて断末魔の叫び声を上げて、光と共に消滅する妖魔。
白虎が蘭子の足元に擦り寄ってくる。
屈み込んで、
「ありがとう、白虎。おまえのおかげで奴を曼荼羅に追い込むことができた」
と、身体をやさしく撫でてやる。
「もう一つ、お願い。この子達の記憶を消して欲しいの。この神社で起きたすべての事を」
すると白虎は、それに応えるように吠えると、すっと姿を消した。
蘭子は立ち上がると、奇門遁甲八陣の結界を解く呪法を唱え始める。
そして両手を、パンと叩くと、すべてが元に戻った。
時が流れ、虫が騒ぐ俗世界へ。
老いさらばえていたリーダーも、元の姿に戻っていた。
ただ一つ消えてしまったものがある。
あのミサンガである。
妖魔が消滅したためだろうと思われる。
翌朝の大阪阿倍野橋駅プラットホーム。
通勤通学で混み合っている急行電車から、京子が飛び降りるように出てくる。先行く人々を掻き分けながら急ぎ足で駆けてゆく。
「あーん。遅刻しちゃうよ」
どうやら寝坊したようである。
注意力散漫になって、案の定誰かとぶつかってしまう。
「ごめんなさい」
大きな声で謝り頭を下げると、わき目も振らずにそのまま立ち去ってしまう。
ぶつかられた人物は、苦笑いしながら呟く。
「よほど、急いでいるんだな」
大条寺明人は何事もなかったように、人ごみの中へと消え去った。
予鈴の鳴り響く阿倍野女子高等学校。
一年三組の教室は今日も元気だ。
ワイワイガヤガヤと席にも着かずに談笑している。
そこへ京子が息せき切って飛び込んでくる。
「滑り込みセーフ!」
恵子が右手を高々と挙げて宣言する。
「ビリッケツだぞ」
「へいへい」
肩で息をしながら自分の席に鞄を置く京子。
「今日も寝坊ですか?」
「深夜映画かしら」
「まあね……」
と、頷く視線の先に自分の手首が目に入った。
じっと見つめたまま動かない京子。
「あれ?」
何かを忘れてしまったような、何かが足りないような……そんな感情が湧き起こる。
しかし、
「しっかりしなさいよ。授業中に居眠りしなさんなよ」
背中をポンと叩かれて正気に戻る京子。
「大丈夫だってばあ」
笑って返す京子。
そんな様子を斜め後方の席から蘭子が見つめている。
妖魔とミサンガが消滅して、人の記憶からも消し去られている。
何事もなかったように時が過ぎ去ってゆく。
蘭子と妖魔との戦いも人知れずに、日夜繰り広げられていることも知らずに。
第四章 了