7 僕の父さん
ミカエルという熾天使がいた。彼は聖書の神によって創造された天使の最高傑作で、神の駒、神の兵の一体に過ぎない存在だった。
そこに感情はなく、ただ命じられるがままに機械的に悪魔を殺し、ロボットのように人間に正義を説くためだけに気が遠くなるほど長い年月を費やしてきた。
食事も水も必要としない彼には休息もなく、娯楽もなにも必要としなかった。
ミカエルはそれが辛いとは思わなかった。彼にとってはそれが神に与えられた仕事で、それこそが彼の全てだったからだ。
やがて、裏切り者の堕天使ルシファーが魔王サタンとして魔界軍を率い、人間界に侵略する事件が起こったが、天界は天使長のミカエルを筆頭にこれを迎え撃つ。
その戦線に世界各地の神話の神々、日本神話所属の因幡の妖怪たちや土地神、人間、アマゾネス族、アトランティス帝国、ムー大陸が加わり、魔界には各神話の巨人族、ドラゴンを始めとする多くの魔物、日本神話を離反した一部の妖怪などが加わった。
この戦いに加わった者の総数はもはや、ミカエルが知るところではなかった。
一説によれば、百万とも千万とも言われていた。
その戦いは、天使と悪魔のみの戦いならず、地球全土を舞台にした三つの世界の激突だった。
後の【千年大戦】と呼ばれる大戦争であり、天魔大戦のプロローグと呼ばれる戦いだった。
その戦いで、ミカエルは天使たちと共に人界の大連合軍の一部の指揮をとり、戦い抜いた。
その戦いの中でミカエルとラファエル以外の五人の熾天使は皆、一人、また一人と、四七柱の大悪魔たちの何体かと相討ち、あるいは討ち取られ、命を落としていった。
悪魔たちはバルログ、アモン、ベルフェゴール、ベリアルの僅か四柱のみが生きて終戦を迎えることとなった。
彼らの戦力は互角だった。
拮抗した力では殺し殺され、倒し倒され、奪った町を奪われ、奪われた土地を奪い、泥沼に突入した地獄の戦は千年以上も続いた。大悪魔が下級天使を薙ぎ倒し、熾天使が下級悪魔を蹴散らし、大悪魔と熾天使が血に濡れて戦い、龍と竜が天空で激突し、妖怪と魔物が化かしあい、喰らいあい、人間はアマゾネス、アトランティス、ムーと共に勇気を持って脅威に抗い、神々と巨人が戦場の全ての敵を焼き払い、踏み潰す。
神話の戦いがそこにあった。
人界は千年以上の間、大戦火に見舞われたが、唐突に破滅がやって来た。
宇宙から墜ちてきた怪物、後に黙示録の獣【アポカリプス】と呼ばれる怪物が戦場に姿を見せた。
その姿は見るものによって変わり、あるものにとっては二足歩行の怪物、あるものの目には四足の獣として写った。
アポカリプスは配下の【ホワイト】【レッド】【ブラック】【ペイル】の四人の騎士を率いて出現から一週間で当時、地上にいた四分の一の命を一切の区別も差別もなく、無差別に奪っていき、その烈火に呑まれてアトランティスは海へ沈んで滅びさり、ムー大陸は原子へと還った。
多くの神話の神々が悉く討ち取られて虚無へ消え去り、塵にされた。
ミカエルたち天界勢力は人界の力を借り、地下に身を潜めることで辛くもその災厄を生き延び、悪魔勢力と手を取り合い、反抗作戦を開始した。
千年以上争っていた地上にいた彼らは一丸となり、宇宙から現れた脅威に立ち向かった。
千年続いた戦争は終わり、真の天魔大戦が始まった瞬間だった。
その戦いで多くの神話勢力がこの世から消えてなくなり、天魔人神、各勢力はそれぞれが深刻な犠牲を払いながらも、当時の魔王だったルシファーが犠牲となり、アポカリプスと四人の騎士を地球の中心奥深くへと封印した。
その結界と封印の在処は誰も知らないという。
魔王と共に彼らを封印した聖書の神は悪しき心を持った何者かに封印を解かれないようにするため、あえて封印の地を明らかにしなかったのだ。
そして、秘密を守るために聖書の神は自身を殺し、この星で最も偉大な母なる神の意思と一つになった。
それでも天魔大戦は終わらなかった。
アポカリプスは消え、魔王と神を喪ってなお、両陣営は止まらなかった、否、止まれなかった。
千年間の間に積もり続けてきた憎悪は、共通の敵を倒した程度では留まることを知らなかった。
ミカエルは何度も天界で、魔界で、人界で悪魔陣営と戦い、その果てに魔界を封印し、悪魔たちを次元の彼方へと追いやった。
それでも力の弱い悪魔ならば、捕鯨用の網をすり抜けるメダカの如く、度々封印を破りこの世界に現れるが天使や妖怪、あるいは人間の悪魔狩人によって退治されることとなった。
天魔大戦最大の激戦地となった戦場は、後に天魔の名を冠する町となり、魔界に通じ安い土地として人外の坩堝となって栄えることとなるのは完全な余談だ。
閑話休題。
かくして、ミカエルの手で天魔大戦は終わり、悪魔陣営と天使陣営は互いに多くのしこり、うらみつらみ残し、戦いは終わった。
その傍らではスルトが人界でラグナロクを起こそうとしてオーディン、シヴァ、天照、ゼウスら主神連合が結成されて総動員されたりなど一悶着あったが、割愛する。
悪魔たちは魔物、ドラゴン、一部の妖怪たちを魔界へ封印され、天使たちは生き残りの各神話勢力と人間たちに地上を任せて一部の者を除き、天界へと帰っていった。
アマゾネスは未開の島へと帰り、神々から餞別として渡された魔法技術で外の世界より遥かに進んだ王国を築いていた。
人間たちはこの戦いを記録して戦いの記憶を後世へと残し、いつしかこの戦争は神話となり、人の子ならば誰もが知っている御伽話の一つとなった。
ラファエルは千年戦争の最中に縁あって、因幡の妖怪兎の始祖【因幡兎々】と結ばれていたため、地上に残ることを望んだ。
ミカエルはそれを承諾し、己は天界へと帰った。
その後、ラファエルが表舞台に現れた記録は、公式には存在しない。
ミカエルは一万年後に婚約して任が解かれるまでの間に、百年に一度、地上へと降臨して地上の悪人へ裁きの鉄槌を下す仕事をしていた。
裁くと言っても、死後地獄へ落ちることが確定している極悪人のみを対象にしたものだったが。
一万年間の間そうしている内に、ミカエルは一人の人間の女性と出会った。
その女性は人身売買組織に拐われ、あるカルト教団に生け贄として売られそうになっていたところを、ミカエルによって救われた。彼女は信心深く、金色の髪が美しくも心優しい女性だった。
彼女が持つその美貌と優しさは、ミカエルの心に永遠に近い時間、悪と悪魔への憎しみと、正義を遂行することしか知らなかった殺人マシーンに感情を植えつけるには十分なものだった。
ミカエルはその女性を出会った瞬間、彼女に恋をした。
正義を遂行する機械として生きてきた彼が、初めて心が芽生えたのだ。
彼女の名前は【天地陸子】
それが天地空をこの世に産んだと同時に、この世を去った母の名前だった。
◇
「なあ陸子。俺はどうしたらいい?」
ミカエル……現在は天地白を名乗る元天使長は愛妻たる陸子の遺影に答えの返ってこない質問を問いかける。
その悩みは愛息子に出来たガールフレンドのことだった。
「どう考えても、悪魔なんだよな」
息子の魂から、悪魔の魂らしき匂いがする。それだけでもガールフレンドが悪魔ではないかと疑う理由としては十分だ。
天使や悪魔などの異界出身の者たちは、【魂の匂い】を嗅ぎ分ける特殊な嗅覚を持っている。
空のような人間とのハーフは純粋種と異なる点が多く、嗅覚も少し鈍いようだが……。
悪魔は人を堕落させる存在。
我々天使の永遠の敵であり、我らが神の敵だ。
少なくとも、白自身は平和になった現代でもそう思っている。
神が提案した和平を受け入れたのは、もう仲間を一人足りとも犠牲に出来なかったからだ。千年戦争と、その千年戦争が霞んで見えるほどの全滅戦争だった天魔大戦のような、大きな戦争は二度と起こしたくなかったし、起きてほしくもない。
なら、空に悪魔のガールフレンド出来たとしても、受け入れるしかないのだろうか。
天魔大戦の折、共闘したときのことを思えば、それくらいのことは寛大に受け入れられる……とはいえない。
それに問題なのは、その娘が空を弄んでいる可能性と、空がその娘の正体に気づいていない可能性があることだ。
前者ならば陸子との約束を守るため、愛する息子のために戦争勃発覚悟でその娘を殺すが、後者ならば愛息子の間抜けさを呪うしかない。
幼なじみの宇咲子が妖怪なのを知らなかったり、宇佐美という別居中の妹がいるのを知らないなど、いろいろ抜けてるところがある空ならば、案外後者かもしれない。
その場合、なにかの拍子に悪魔の正体を知ってしまったガールフレンドが空を殺そうとする可能性がある。
だから、空の荷物にこっそりと退魔のお守りを仕込んだりと色々と策を講じてきた。
今も、空が学校に行っている間に空の部屋を物色していた。
なぜとは言うまい。息子のことをなんでも知っておくことは、父親としての義務なのだ。
「なにかねーかー」
白は机やベッドを探り、ガールフレンドについての情報がないかを物色する。
元天使長だった男とは思えない、卑劣な空き巣犯のような光景がそこにあった。
空のベッドの下にある本はシワ一つつけないように丁寧に扱い、ジャンル毎に整理して空の机の上に並べておくことは忘れない。学校から帰った空の今晩は恥辱に悶える夜になるだろう。
白の顔に邪悪な笑みが浮かんでいたのは気のせいだ。
クローゼットの中を漁っていると、昔の思い出が詰まったアルバムを見つけた。
「お、これは空が四歳の頃だな。これは陸子との写真だ」
出るわ出るわ、空が産まれるずっと前から最愛の妻と共に作り続けていたアルバムの山、山、山。部屋の中にこんもりと小山がつくれるほどの量。
始めの悪魔疑惑のあるガールフレンドのことは頭からすっかり離れ、家族の思い出に耽っていると熱中して時間を忘れてしまう。
学校から息子が帰ってくるまで、そのヘブン状態は続いた。
そして、帰って来た息子にその惨状を見られて大変なことになる。
「父さん!なんで僕の部屋に勝手に入ってるの?!僕がいない間に勝手に出入りしないでって僕いつも言ってるよね?!大体父さんは昔から過保護で―――」
実の息子にクドクドクドクドと、子供を叱る親のように部屋を荒らしたことをこっぴどく怒られることになった。
そして、秘蔵の本を机の上に晒しておいたことでマジギレされ、しばらく口を聞いてもらえなくなったことはご愛敬だ。